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臼井城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0039.JPG←主郭北側の腰曲輪
 臼井城は、下総の名族千葉氏の庶流臼井氏が築き、後に同族で千葉氏の筆頭家老であった原氏の居城となった。臼井氏は、千葉一門の中でも最も古い一族で、平安時代後期に千葉常兼の子常康が臼井郷に分封されて、臼井氏の祖となった。この草創期の居城が臼井城であったかどうかは明確ではない。南北朝期の臼井氏中興の祖興胤の時、臼井城の基礎が築かれたと言われている。臼井城がはっきりと歴史上に姿を現すのは、1479年の太田道灌による臼井城攻めの時である。即ち、1476年に生起した長尾景春の乱の際に、景春方に付いた千葉一族討伐の為、1478年、扇谷上杉定正は家宰の江戸城主太田道灌と赤塚城主千葉自胤(武蔵千葉氏)らを下総国府台に向けて出陣させた。対する千葉孝胤は、原景弘・円城寺図書之助・臼井俊胤ら一族重臣を率いて境根原で迎撃したが敗れ、千葉勢は一族の臼井持胤・俊胤の守る臼井城に籠城した。翌年正月、道灌は弟の図書助資忠・千葉自胤を率いて臼井城を攻囲したが、守りが堅く容易に落ちなかった。太田資忠は、ようやく臼井城を落城させたが、自身は乱戦の最中に討死したと伝えられている。その後程なく臼井氏は臼井城に復帰したが、戦国時代中期の1557年、臼井景胤の死に当たり、遺言により若い久胤の後見として、同族で生実城主原胤清の子胤貞が臼井城に入り、原氏の影響下に置かれた。1561年、久胤は、里見方の大多喜城主正木時茂に臼井城を攻め落とされ、久胤は結城晴朝の元に逃れた。1564年、原胤貞は臼井城を奪還したが、1566年には上杉謙信に攻撃され、落城寸前まで追い込まれたが、辛うじて落城を免れた。その後、生実城を失陥した原氏は本拠を臼井城に移し、1590年に小田原の役で小田原北条氏に従って滅亡するまで、原氏の居城となった。徳川家康が関東に入部すると、臼井城には重臣の酒井家次が3万石で入ったが、1604年に酒井氏の転封により臼井城は廃城となった。

 臼井城は、印旛沼南岸の比高20m程の段丘上に築かれた城である。現在主郭とニノ郭は城址公園として整備されている。台地先端に当たる東端に、北側を腰曲輪群で防御した広やかな主郭を置いている。主郭とニノ郭の間は広い空堀で分断され、土橋で連結され、主郭腰曲輪はそのままこの空堀に繋がっている。この空堀に対して、主郭の西に張り出した櫓台から横矢が掛けられている。ニノ郭も広大な曲輪で、外周に低土塁が残っているが、公園化による改変で遺構はわかりにくい。ニノ郭の周囲には天然の谷戸を利用した空堀が構えられ、その西側に外郭が築かれている。主郭もニノ郭も周囲の空堀は広く、鉄砲戦を考慮したものと考えられる。外郭は畑や民家に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいるが、外郭西側の斜面に小規模な空堀が一部残存している。また南側の空堀は湮滅しているが、北端部の浅い堀切が山林の中に残り、この堀切に沿って土塁や櫓台・腰曲輪が残っている。この他、ニノ郭の南に祠の置かれた櫓台が残っている。臼井城は改変はあるものの、往時の雰囲気はよく残っており、謙信の猛攻にも耐えた要害の名残を残している。
外郭西側の横堀→IMG_0100.JPG
IMG_0114.JPG←外郭北端の小堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.737933/140.178962/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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