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大崎城(千葉県香取市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5705.JPG←四ノ郭外周の屈曲する横堀
 大崎城は、矢作城とも呼ばれ、下総の名族千葉氏の庶流国分氏の居城である。千葉氏5代千葉介常胤の5男五郎胤通が国分郷に分封されて国分氏を称した。胤通は本矢作城を築いて居城としたが、鎌倉末期頃に5代泰胤が新たに大崎城を築いて居城としたと言う。これは、鎌倉末期から南北朝時代の動乱の中で、より要害性を求めてのことであったと思われる。以後大崎城は、天正年間(1573~92年)の廃城まで、国分氏歴代の居城となった。国分氏は、戦国時代には他の千葉氏一族と同様、小田原北条氏に属して勢力を有した。永禄年間(1558~69年)に、安房里見氏の部将正木氏が東総に侵攻、一帯を席巻したとされるが、これは1560年の上杉謙信の越山に呼応したものか、1564年の第二次国府台合戦の前哨戦として行われたものと推測される。この時大崎城も攻め落とされたが、間もなく奪還したとされる。その後国分氏は、1590年の小田原の役で北条氏と命運を共にした。その後、徳川家康が関東に移封になると、その家臣鳥居元忠が大崎城に入ったが、程なく岩崎に居を移したという。

 大崎城は、香西川とその支流の合流点に半島状に突き出した、比高30m程の丘陵上に築かれた城である。大きく4つの曲輪群に分かれており、更にこれらが「城の内」「外城」の大きく2つのブロックに分かれた一城別郭式の広大な城である。尚、現在城域には両総用水の水路が貫通しており、一部遺構が破壊を受けている。
 まず北側の「城の内」であるが、南北に並んだ主郭群とニノ郭で構成されている。主郭群は、北西部の約1/3が前述の通り水路建設で改変されているが、それ以外は段々に曲輪群が残っている。西側や北端に物見台状の曲輪がそびえ、南東部が最も高所に位置し、主殿が置かれていたと考えられる。ニノ郭との間は直線状の巨大な二重堀切で分断され、特にニノ郭側の堀切は上総・安房方面に多い垂直絶壁切岸の深い堀切である。ニノ郭は西辺と南辺を土塁で囲まれた平場となっている。
 次に「城の内」から大きな谷戸を挟んで南に位置する「外城」であるが、本命寺の南にそびえる東西に長い丘陵に三ノ郭群が築かれ、その南西に四ノ郭群が配置されている。三ノ郭群は東側に物見台の曲輪群が築かれ、そこから南辺に沿って土塁が築かれている。三ノ郭の南下方には、横堀も築かれている。三ノ郭群と四ノ郭群の間は堀切で分断されているが、この辺は薮がひどく、踏査が大変である。四ノ郭群はいかにも外郭という感じの広大な曲輪群で、北東側の先端部は自然地形だが、上部の南西部は綺麗に削平された広い曲輪となっている。南東斜面には腰曲輪群が築かれているが、上部に櫓台を置き城道を兼ねた横堀で背面を防御した扇状地形の曲輪群となっている。四ノ郭で出色なのは、南端の外周部に穿たれた横堀で、幾重にも屈曲して横矢の掛かった、比較的規模の大きな堀で厳重に防御されている。ここはいかにも北条的な部分である。この横堀の西端はそのまま竪堀となって斜面を降っているが、竪堀の先に土塁で囲まれた扇型の腰曲輪が築かれており、ちょっと珍しい形をしている。横堀の外の白幡神社までが城域だったらしく、この付近にも幾つもの平場が確認できる。
 大崎城は、当初は「城の内」部分だけで構成されていたものが、北条氏支配時代に拡張され、新たに「外城」部分が追加されたことが遺構を見ても明確にわかる。用水路による改変以外は遺構がよく残っており、特に四ノ郭の横堀は見事である。また垂直切岸の大堀切や一城別郭構造など、遠く離れた千本城との類似点も垣間見られ、興味深い。
主郭二重堀切の1本目→IMG_5133.JPG
IMG_5140.JPG←主郭二重堀切の2本目
三ノ郭の物見台曲輪群→IMG_5611.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.871399/140.488230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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