見広城(千葉県旭市) [古城めぐり(千葉)]
←堀切と櫓台
見広城は、嶋田三河守義広の居城と伝えられている。永禄年間(1558~69年)に、安房里見氏の部将正木時忠が東総に侵攻、一帯を席巻したとされるが、1560年の上杉謙信の越山に呼応したものか、1564年の第二次国府台合戦の前哨戦として行われたものと推測される。この時、見広城も落城し、嶋田氏は滅亡したと言われている。
見広城は、台地のヘリに突き出した比高50m程の要害山に築かれている。西方には現在、一面の水田地帯が広がっているが、かつては椿海という湖沼が広がっており、湖に面した水運を掌握する城であった。遺構はよく残っており、雷神社から城への遊歩道が整備されている。台地突端の城と台地基部の間は自然地形を利用した大堀切が穿たれ、そのまま城の北東まで掘り切っている。その先の城域最頂部に南北に長い主郭があり、背後に土塁と櫓台が築かれ、石碑が建てられている。主郭の全面にも小さな土塁が築かれ、その下に数段の腰曲輪群が綺麗に築かれている。その下にやや起伏に富んだニノ郭が広がり、先端部がやや高くなっていて、櫓台であったと考えられている。ニノ郭の一段下に三ノ郭が築かれ、ここも先端部にガサ藪の物見台が築かれている。三ノ郭の脇から麓に向かって城道が残っており、虎口を防衛したと思われる腰曲輪群が藪の中に確認できる。この他、ニノ郭の東側にも腰曲輪があり、竪堀が穿たれている。見広城は、台地突端の高低差のある地形をうまく利用して築かれた、連郭式の城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.738740/140.696734/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
見広城は、嶋田三河守義広の居城と伝えられている。永禄年間(1558~69年)に、安房里見氏の部将正木時忠が東総に侵攻、一帯を席巻したとされるが、1560年の上杉謙信の越山に呼応したものか、1564年の第二次国府台合戦の前哨戦として行われたものと推測される。この時、見広城も落城し、嶋田氏は滅亡したと言われている。
見広城は、台地のヘリに突き出した比高50m程の要害山に築かれている。西方には現在、一面の水田地帯が広がっているが、かつては椿海という湖沼が広がっており、湖に面した水運を掌握する城であった。遺構はよく残っており、雷神社から城への遊歩道が整備されている。台地突端の城と台地基部の間は自然地形を利用した大堀切が穿たれ、そのまま城の北東まで掘り切っている。その先の城域最頂部に南北に長い主郭があり、背後に土塁と櫓台が築かれ、石碑が建てられている。主郭の全面にも小さな土塁が築かれ、その下に数段の腰曲輪群が綺麗に築かれている。その下にやや起伏に富んだニノ郭が広がり、先端部がやや高くなっていて、櫓台であったと考えられている。ニノ郭の一段下に三ノ郭が築かれ、ここも先端部にガサ藪の物見台が築かれている。三ノ郭の脇から麓に向かって城道が残っており、虎口を防衛したと思われる腰曲輪群が藪の中に確認できる。この他、ニノ郭の東側にも腰曲輪があり、竪堀が穿たれている。見広城は、台地突端の高低差のある地形をうまく利用して築かれた、連郭式の城である。
主郭背後の土塁→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.738740/140.696734/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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