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大友城(千葉県東庄町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5449.JPG←政所台の現況
 大友城は、長元の乱を起こした平忠常の居城と言われている(居城は大椎城であったとの説もある)。元々は忠常の祖父で、坂東八平氏の祖となった平良文平将門の叔父)が、一時期居城としたとも伝えられる。忠常は祖父以来の地盤である両総地域に広大な所領を有し、大友城のある東庄町周辺は最も有力な拠点の一つであったと考えられている。1028年、忠常はこうした強大な勢力を背景に受領と事を構えて騒乱に至った。朝廷は追討軍を派遣したが、忠常は頑強に抵抗して容易に鎮定できず、乱は房総3ヶ国に及んで大いに疲弊した。業を煮やした朝廷は追討軍の大将平直方を解任し、新たに源頼信を追討使に任じてようやく忠常を降伏させた。尚、頼信の子が前九年の役を起こした源頼義で、孫が後三年の役を起こした八幡太郎源義家である。頼信が忠常を降伏させたことで、坂東武士との間で主従関係を持つようになり、後の源氏発展の礎を築いたとされる。その後の大友城の歴史は定かではないが、忠常の子孫に当たる東氏等によって幾度となく城として使用されたと推測されている。

 大友城は、兼田貯水池の南東に位置する比高40m程の丘陵上に築かれている。南北に並立した大きく2つの平場から成り、北側が「政所台」、南側が「遠所台」と呼ばれている。いずれも現在は畑と耕作放棄地となっており、ただの平場が広がっているだけで遺構らしきものは確認できない。政所台には塚と思われる土壇が数ヶ所残されているだけである。2つの平場の間は細くくびれた地形で、天然の土橋となっている。遠所台の南西隅付近には、金明水という井戸跡があるらしいが、腰曲輪と城道がある以外はよくわからなかった。いずれにしても平安時代の古い城らしく、あまり明確な普請はされておらず、自然地形をそのまま利用したものだったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.798940/140.658498/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古代城郭
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