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須知城(京都府京丹波町) [古城めぐり(京都)]

IMG_7068.JPG←算木積みの見られる主郭石垣
 須知城は、市森城とも呼ばれ、この地の土豪須知氏の居城である。須知氏については、太平記にも元弘争乱の際に六波羅探題に反旗を翻した足利尊氏の元に参集した丹波の土豪達の中に、「志宇知」の名で記載されている。須知城は南北朝時代に須知景光が築城したとされ、1352年に丹波守護代荻野朝忠に属した中津川(遠山)小次郎秀家らの軍勢が須知城を攻め落としたことが伝わっている。その後も丹波の有力国人の一人として、位田の乱などにも名が伝わっている。戦国後期の1579年、丹波に侵攻した明智光秀の軍勢によって落城したと言う。その後の城の歴史は伝わっていないが、現在残る石垣などの遺構からすると、明智氏支配時代にも繋ぎの城として機能したと推測される。

 須知城は、京都縦貫道の丹波ICに程近い、標高384mの山上に築かれた山城である。表示等はないが、整備された明確な登道が山上まで伸びており、登口さえ分かれば藪漕ぎの苦労なく訪城できる。大きく、主郭・ニノ郭・三ノ郭を直線的に連ねた主城域と、背後の尾根に築かれた東郭とに大別できる。西の尾根から登って行くと、切り立った切岸の上に三ノ郭がそびえ、三ノ郭中央には櫓台があり、そこから先は平坦な曲輪群が連なっている。主城部は切岸だけで区画されているが、ニノ郭と主郭の前面には低い石垣が築かれ、側方に小規模な枡形虎口が形成されている。主郭背後の土塁の後ろには、中世城郭では例の少ない、見事な高石垣が築かれている。この石垣は、角部に算木積みの技法まで見られる本格的なもので、この城で他に見られる石垣とは規模も石積み技術も格段に優れており、光秀によってもたらされた穴太衆のものと思われる。主郭の背後は、小規模な段曲輪・堀切と土塁・石垣のある繋ぎの曲輪があり、その先に東郭が築かれている。東郭は背後の尾根筋を防御するために拡張された曲輪のようで、上段郭・中段の方形囲郭・下段郭の3つに分かれている。ここにも石垣が見られるが、規模は小さい。須知城は堀切は小規模なもの1本しかなく、比較的簡素な縄張りの連郭式山城であるが、近世城郭への移行期の城の形態が垣間見られ興味深い。主郭背後の高石垣のみ見所の、一点豪華主義と言う印象の城である。
ニノ郭前面の石垣→IMG_7050.JPG
IMG_7092.JPG←東郭群の方形囲郭
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.141718/135.439451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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