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宇津城(京都府京都市) [古城めぐり(京都)]

IMG_7144.JPG←主郭東側の石垣
 宇津城は、この地の国人領主宇津氏の居城である。宇津氏は、南北朝時代に佐々木道誉や高師直と並ぶ婆沙羅大名として聞こえた美濃の大名、土岐頼遠の裔を称した。系譜によれば、1441年の豊後守頼顕に始まり、頼夏、頼高、頼重と続いた。頼高は、1527年に細川高国と細川晴元が桂川で戦ったとき、高国に属して出陣し、敗北した。天文年間(1532~55年)には、頼重が山国御領所の貢租を妨害した他、広い地域において押領・略奪を行って、皇室経済に打撃を与えた。宇津氏の強勢は、1561年に松永久秀が勅使として派遣されたが、久秀の力を以ってしても制止できなかった。1569年には、織田信長から横領を制止する朱印状が下されたが、それにも従わなかった。1579年、丹波に大挙侵攻した明智光秀によって、宇津城は一戦にも及ばず開城し、宇津氏は滅亡した。その後、宇津城は光秀によって修築され、また新たに周山城が築かれたと言う。

 宇津城は、下宇津の八幡神社の裏にそびえる、標高356m、比高150m程の山上に築かれている。八幡神社の裏から山上近くまでは竪堀状の溝が残っているが、おそらく伐採した木材の搬出路か何かだったのだろう。10分程急斜面と格闘しながら登ると、ようやく腰曲輪に到達する。強勢を誇った宇津氏の居城としては小規模な城で、南端の山上に主郭を置き、その北尾根に段状にニノ郭・三ノ郭を設け、主郭南から西面に腰曲輪を廻らしただけの簡素な縄張りである。それでも主郭の虎口や東側の塁線に小規模な石垣が確認できる。三ノ角の先は尾根筋だけを細い土橋として削り残した堀切で、ここで城域は終わっている。一方、南東斜面の下方に、堀切で背後を遮断した独立堡塁状の物見台が築かれて、南斜面にあったと思われる大手道を防衛している。悪政の限りを尽くした宇津氏であったが、城の規模から考えると、皇室経済に打撃を与える程の影響力が嘘のように思える。
三ノ郭の先の堀切と土橋→IMG_7156.JPG
IMG_7177.JPG←南東斜面の独立堡塁状の物見台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.148017/135.579806/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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