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周山城(京都府京都市) [古城めぐり(京都)]

IMG_7256.JPG←大手に残る大型櫓門跡
 周山城は、1579年に丹波を平定中の明智光秀が、新たに築城した東丹波統治の拠点である。光秀は、東丹波で長らく横領と略奪を繰り返し、悪政を行っていた宇津氏を滅ぼし、その居城であった宇津城を改修すると共に、新たな拠点として周山城を築いた。これは宇津城があまりに手狭であったためと思われる。伝承では完成を急ぐあまり、神社仏閣から手当たり次第に石垣や墓石などを徴用したと言う。しかしその後は善政を敷いて領民から慕われたと言う。その為、城の東麓に建てられた慈眼寺には、光秀の木像と位牌が光秀滅亡後も領民によって密かに祀られて、今日に及んでいる。1581年、光秀は津田宗及を周山城で「十五夜之月見」を催して歓待した。しかし翌82年、光秀は本能寺の変で信長を弑し、山崎合戦で羽柴秀吉に敗れて滅んだ。周山城は、この時廃城になったと思われる。

 周山城は、周山町の西にそびえる標高480m、比高240mの山上に築かれた城である。名将光秀によって新造された大規模な城郭で、広範囲に曲輪群と石垣が残存し、また中世城郭的な堀切による曲輪の分断はないものの、虎口には枡形が多用され、本丸には天守台まで築かれた丹波屈指の新鋭城郭である。基本的な結構としては、山頂の本丸を中心に東・南・西の三方の尾根に曲輪群を配した構造で、東にニノ丸・三ノ丸、西に4段程の曲輪群で構成された西郭群、南にも4段以上の曲輪群で構成された南郭群を置いている。いずれの曲輪にも石垣の残欠が所々見られるが、大規模に残っているのは西郭群と主郭西側、そして南郭群の上段曲輪である。その他は城が破却された時に壊されたと思われ、かなり崩れてしまっている。しかし往時の縄張りはほぼ復元可能なほど遺構が良好に残っており、例えば、三ノ丸から二ノ丸への登道の横には道に沿った登り石垣があり、但馬竹田城の登り石垣と共に織豊系城郭で考案された技術であった可能性を示唆している。また二ノ丸から本丸に向かう大手道には、入口に大型の大手櫓門がそびえ、その先に一直線に大手道が伸びていたらしく、土塁・石塁がはっきりとした形を残している。この櫓門には左側側方に隠し虎口も備えていたらしい。本丸は大手・搦手共に枡形虎口を備え、西郭から本丸搦手に通じる城門には、総石垣の屈曲した枡形が構築されていたことがわかる。南郭群も枡形虎口が2ヶ所確認でき、最上段曲輪の枡形には石段も残っている。南郭は、かなり広範囲に曲輪が展開していたらしく、未整備の藪の中に曲輪・石垣・枡形虎口等が残り、先端郭の切岸の脇には大きな搦手道があって、石塁を伴っていた様である。この他、三ノ丸の先にも北東の出丸や南東の出丸があり、かなり広範囲に城域が広がっていた様である。周山城は、光秀滅亡後の破却で大きく損壊していると思われるが、それでも往時の威容を垣間見ることのできる屈指の遺構である。
二ノ丸への登道の登り石垣→IMG_7232.JPG
IMG_7276.JPG←本丸に残る天守台
南郭の石垣→IMG_7314.JPG
IMG_7352.JPG←南郭群の搦手道と石塁
西郭から本丸への枡形城門跡→IMG_7383.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.156777/135.622629/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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