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高津城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_8099.JPG←本城域手前の堀切
(2014年4月訪城)
 高津城は、八幡山城とも言い、何鹿郡の国人領主大槻氏の居城である。大槻氏は、室町時代後期より名が顕れ、1489年に丹波守護代上原豊前守の圧政に抵抗して丹波の国人領主層が挙兵した「位田の乱」の際に、丹波国人一揆勢の中にその名が見える。また1507年、管領細川政元が、若狭守護武田元信の救援要請に応じて丹後守護一色義有討伐の為に出陣した際、この高津の地に陣を敷いたとされる。一説には、この時政元は隠龍寺に宿陣したとも言われ、将軍の首をもすげ替える幕府の最高権力者であった政元を、自領に迎えて警護した大槻氏の勢威の程が伺われる。天正年間(1573~92年)の明智光秀による丹波平定では、大槻氏は光秀に徹底抗戦した丹波の3強の一、赤井氏に与した為、高津城も攻められて落城し、大槻氏は没落したと言う。

 高津城は、高津八幡宮背後の標高140mの山上に築かれた城である。山頂部の2つの峰に主郭群とニノ郭群を南北に配置し、西の尾根の先に出丸群を配置している。郭内は綺麗に削平され、ハイキングコースも整備されているので遺構は見易い。神社から山道を進むと最初に西出丸がある。数段の曲輪群で構成された簡素な構造だが、規模は小さいものの土塁や横堀が築かれて防御を固めている。最下段の横堀は西端で直角に曲がっており、現地解説板では「横矢掛かり」として喧伝しているが、それ程技巧的な印象は受けない。一方更に登って行くと主城域に入るが、前面に大きな堀切が穿たれ、これがこの城一番の見所である。その上に腰曲輪数段を越えて主郭に至る。主郭は頂部の小郭と周りを囲む腰曲輪から成っており、北斜面や北尾根に竪堀・堀切もあるが、いずれも規模は小さく、特に竪堀は埋もれていてほとんどわからない程度である。主郭の背後に鞍部の曲輪を挟んでニノ郭群がある。ニノ郭も頂部の小郭と周りを囲む腰曲輪から構成され、更に西側に腰曲輪を伴っているが、背後に明確な堀切は確認できず、防御性がやや乏しい。高津城は、規模・技巧性とも普通の城で、いかにも地方領主の城という趣である。それを考えると、支城である将監城の先鋭的縄張りが極めて特異なものであることがわかる。もしかしたら、光秀軍による攻城戦の際には谷戸の奥にある将監城を本城とし、谷戸入口にある高津城と段山城は出城として機能したのかもしれない。
西出丸の横堀土塁→IMG_8070.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.299061/135.212899/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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