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篠山城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_8814.JPG←内堀と二ノ丸石垣
 篠山城は、徳川幕府が豊臣氏包囲網の一環として新造した近世城郭である。徳川家康は関ヶ原合戦で勝利して政権の実権を握ると、1603年には征夷大将軍に補任され、僅か2年で後継者の秀忠に将軍職を譲って将軍職の世襲化を図り、着々と豊臣家の勢力漸減を図った。一方で、未だに隠然たる勢力を以って大坂城に君臨する豊臣家を包囲するため、外様諸大名に命じて西国各地の城を大々的に築城・整備した。篠山城もその一つで、元々この地は、明智光秀の丹波平定に激しく抵抗した波多野氏の居城であった八上城が拠点城郭であったが、1608年に家康の実子ともされる松平康重がこの地に入部すると、家康の命で新城の築城に取り掛かった。この築城工事は西国15ヶ国20諸侯の大名に夫役を命じた天下普請で行われ、縄張奉行に家康の信任厚く築城の名手と言われた津城主藤堂高虎を、普請総奉行に家康の女婿の姫路城主池田輝政を当て、突貫工事によってわずか1年足らずで完成した。完成とともに、幕命によって康重は八上城から篠山城に移り、大坂城包囲網の一翼を担った。豊臣氏滅亡後も篠山城は需要な城として存続し、明治維新までの260年間に松平3氏8代、青山氏6代の居城となった。

 篠山城は、篠山と呼ばれる小丘陵を利用して築かれた城である。その意味では平山城であるが、実質的には平城である。基本的には環郭式の城で、内郭・外郭双方の外周を水堀で囲み、外郭に当たる三ノ丸は外周に土塁を築き、内郭の本丸・二ノ丸は総石垣で囲まれた曲輪となっている。本丸と二ノ丸は高さ数mの段差だけで区切られ、本丸の南東角には天守台が築かれている。しかし篠山城では、天守は築かれたことがない。築城当時、他の城の普請を急ぐため、天守の創建は放棄されたと見られている。内郭の石垣には、天下普請の城らしく、石垣に多数の刻印が残っており、そこかしこで見ることができる。また二ノ丸には、昭和19年に失火によって消失した大書院が復元されている。この城の特徴は、三ノ丸の外3ヶ所に角馬出が築かれていることで、北側の大手馬出しは市街化によって湮滅しているが、残りの2ヶ所が現存している。特に南馬出しは規模が大きく、立派な土塁で囲まれている。また三ノ丸を取り巻く水堀は幅40m程もあって全周を囲んでおり、威容を湛えている。同じく藤堂高虎が築いた、今治城や津城との類似性を感じさせる。
大手枡形と屈曲する内堀→IMG_8774.JPG
IMG_8868.JPG←東馬出し
南馬出しの土塁→IMG_8838.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.073167/135.217705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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