天津城(千葉県鴨川市) [古城めぐり(千葉)]
←一段高くなった本堂周辺
天津城は、鎌倉時代に天津の領主であった工藤左近尉吉隆の居城である。吉隆は、鎌倉幕府に出仕中に四条金吾・池上宗仲等と共に日蓮に深く帰依した。1264年、日蓮が母の病気見舞いに小湊に帰郷した際、吉隆の館を訪ねる道すがら、かねてより日蓮に恨みを持っていた地頭東条景信に東条の松原で襲撃され、重症を負った(小松原法難)。この時、救援に駆けつけた吉隆は討死したと言う。吉隆の嫡子日隆は、父の菩提を弔う為、吉隆の館を寺にしたと伝えられている。これが現在の日澄寺である。
天津城は、城とは言うものの実質的に居館で、前述の通り現在の日澄寺に当たる。背後に山を控えた一段高い高台に本堂があり、鎌倉時代の武士の居館の典型的な立地となっている。明確な遺構はなく、寺の門前に「工藤吉隆之舊趾」と刻まれた石碑が建っているだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.124555/140.163253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
天津城は、鎌倉時代に天津の領主であった工藤左近尉吉隆の居城である。吉隆は、鎌倉幕府に出仕中に四条金吾・池上宗仲等と共に日蓮に深く帰依した。1264年、日蓮が母の病気見舞いに小湊に帰郷した際、吉隆の館を訪ねる道すがら、かねてより日蓮に恨みを持っていた地頭東条景信に東条の松原で襲撃され、重症を負った(小松原法難)。この時、救援に駆けつけた吉隆は討死したと言う。吉隆の嫡子日隆は、父の菩提を弔う為、吉隆の館を寺にしたと伝えられている。これが現在の日澄寺である。
天津城は、城とは言うものの実質的に居館で、前述の通り現在の日澄寺に当たる。背後に山を控えた一段高い高台に本堂があり、鎌倉時代の武士の居館の典型的な立地となっている。明確な遺構はなく、寺の門前に「工藤吉隆之舊趾」と刻まれた石碑が建っているだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.124555/140.163253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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