SSブログ

小浜城(千葉県いすみ市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9458.JPG←南尾根の堀切
 小浜城は、万喜土岐氏が築いた支城である。1493年に万喜城主土岐頼定が、伊南領を守る為に家臣の鑓田(槍田)美濃守に小浜城を築かせたと言われている。戦国末期には、鑓田氏は里見方となっていたらしく、『房総治乱記』によれば、1588年に小浜城主鑓田美濃守勝定は、里見義頼の命を受けて相模国三浦に遠征して北条勢と干戈を交えたと言う。しかし、その虚に乗じて北条方の上総勝浦城主正木頼忠が小浜城を襲い、攻め落としてしまった。里見義頼は、老将山川豊前守の軍勢を送って奪還を図ったが果たせず、慌てて戻った勝定も為す術がなかった。翌年、勝定は夜陰に乗じて小浜城を奇襲し、奪還を果たした。1580年に北条氏が滅び、徳川家康が関東に入部すると、重臣の本多忠勝が大多喜城主となり、同じ頃忠勝の軍勢によって小浜城は攻略され、以後廃城となったと言う。

 小浜城は、城山と呼ばれる八幡岬先端の丘陵上に築かれている。山頂の小さな主郭には小浜八幡神社が祀られ、周囲の曲輪は一部は公園化されているが、その他は多くの薮でその形状を確認することはおろか、突入することすらできない。しかし公園化されている部分だけでも、曲輪の形状が明瞭で、特に主郭の西側に当たる青年館の建てられた曲輪は、ニノ郭だったと思われ、そこそこの居住性を持ち、西側外周には大土塁が残り、入口には切通し虎口が開かれている。公園化による改変もあるが、この構造は金山城のものと全く同様のものであったと思われる。その他、主郭の周囲にも腰曲輪らしい平場が残っている。一方、神社参道の途中から東の岬に向かって遊歩道が伸びているが、主郭東側の尾根上まで来たところで道が堀切状となっており、実際に先端の出丸を分断する堀切となっていたと思われる。またニノ郭西側の公園化された腰曲輪を奥に少し進んでから薮に突入すると、ニノ郭から南に伸びる稜線を断ち切る、垂直切岸の堀切を確認することができる。ここだけが唯一、改変を受けずに残った明確な城趾遺構である。小浜城は規模は比較的小さな城だが、南に深く入り込んだ入江に水軍を擁した、水軍基地だった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.250418/140.405994/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
nice!(4)  コメント(2) 

nice! 4

コメント 2

イラブ

こんにちは、小浜城 南尾根に垂直堀切が有りましたか! 見逃してしまいました。
数年前に訪れたのですが、さすが大平洋海が荒れていて城跡下は防波堤内でも数㍍の波が立っていました漁船は何処か別の港に避難している様子でしたが・・・当時どの程度の水軍力だったのか?おそらく極軽量の舟で近距離をショートカットの海岸線移動だったのでは?と想像しました。
by イラブ (2014-10-26 17:28) 

アテンザ23Z

>イラブさん
こんにちは。ご無沙汰しております。
行ったのは夏場だったのですが、余湖さんHPの鳥瞰図情報で、この方面に堀切があるらしいということでしたので、蜘蛛の巣と蛇の出現に怯えながら、行けそうな藪の切れ目に入っていって、写真に収めることが出来ました。
水軍ですが、伝承に城主が三浦まで遠征していると言うので、里見水軍麾下の軍船があったことは間違いなく、ただ、城の規模と船溜りの大きさ、城主の格から考えれば、中・小型の軍船が数隻程度のものだったと想像しています。東京湾を渡るぐらいはできたでしょうが、遠距離航海は無理だったんでしょうね。
by アテンザ23Z (2014-10-26 18:06) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント