勝呂豊前守屋敷(埼玉県坂戸市) [古城めぐり(埼玉)]
←勝呂氏関連の板石塔婆
勝呂豊前守屋敷は、永禄年間(1558~69年)に小田原北条氏の家臣であった勝呂豊前守の居館である。『新編武蔵国風土記稿』によれば、勝呂氏は元は「須黒氏」と記載し、武蔵七党村山党の一流であった。『吾妻鏡』には須黒兵衛太郎恒高の名があり、その子頼高は承久の乱で討死した。豊前守はその後裔とされ、北条氏滅亡後は安房里見氏に仕えたが、里見氏も転封・改易となった為、浪人となったと伝えられる。
勝呂豊前守屋敷は、現在の宗福寺の付近一帯にあったとされている。『日本城郭大系』の図によれば、以前は宗福寺の北側に土塁があったらしいが、現在は宅地開発などで湮滅している。宗福寺東側の車道沿いの水路も堀の名残とされるが、既に改変が激しく、これを遺構と言っても俄には信じがたい程である。勝呂氏の事績を伝える板石塔婆が、寺の中に残るだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.974084/139.418635/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
勝呂豊前守屋敷は、永禄年間(1558~69年)に小田原北条氏の家臣であった勝呂豊前守の居館である。『新編武蔵国風土記稿』によれば、勝呂氏は元は「須黒氏」と記載し、武蔵七党村山党の一流であった。『吾妻鏡』には須黒兵衛太郎恒高の名があり、その子頼高は承久の乱で討死した。豊前守はその後裔とされ、北条氏滅亡後は安房里見氏に仕えたが、里見氏も転封・改易となった為、浪人となったと伝えられる。
勝呂豊前守屋敷は、現在の宗福寺の付近一帯にあったとされている。『日本城郭大系』の図によれば、以前は宗福寺の北側に土塁があったらしいが、現在は宅地開発などで湮滅している。宗福寺東側の車道沿いの水路も堀の名残とされるが、既に改変が激しく、これを遺構と言っても俄には信じがたい程である。勝呂氏の事績を伝える板石塔婆が、寺の中に残るだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.974084/139.418635/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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