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勝山城(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSC01897.JPG←主郭の櫓台と空堀
(2006年11月訪城)
 勝山城は、宇都宮氏の庶流氏家氏の居城である。氏家氏は、宇都宮朝綱の子公頼を祖とする一族で、当初は御前城を居城としていたが、後に勝山城を築いて移ったものと推測されている。氏家氏の名は、『吾妻鏡』に見られ、1190年の源頼朝の上洛に際して公頼は随兵の先陣として随行している。また、1193年の鶴岡八幡宮放生会では、公頼は流鏑馬の射手を務めた。1222年の将軍御前での犬追物では、公頼の子公信が射手に選ばれた。公信の子経朝も、1251年の犬追物で射手に選ばれるなど、武門の家として著名であったことが知られている。南北朝時代の観応の擾乱では、宇都宮氏は一族を挙げて足利尊氏方に付き、薩埵山合戦の勝利に大きく貢献した。この戦功によって、宇都宮氏綱は上野・越後2ヶ国の守護となり、その重臣の飛山城主芳賀高名はその守護代となった。氏家氏一族も当主周綱、その子綱元、同族の定朝、綱経など、多くの賞勲を受けた。しかし綱元の時、氏家氏は一旦断絶となり、その後飛山城主芳賀高家の子高清が勝山城主となった。以後、勝山城は、飛山城と連携して宇都宮城の北方防備の最大拠点として重視され、対立する那須氏との攻防では、しばしば合戦の舞台となった。そのまま戦国時代を通じて城は存続したが、1597年に宇都宮国綱が豊臣秀吉によって改易されると、宇都宮氏の多くの城と同じく勝山城も廃城となった。尚、下野を本貫地とする氏家氏は、その分流が奥州と美濃で活躍し、奥州氏家氏は伊達家家臣として江戸時代を通じて存続し、また美濃氏家氏は美濃三人衆として織田信長に付いて活躍した氏家卜全を輩出した。

 勝山城は、飛山城と同じく鬼怒川東岸の段丘辺縁部に築かれた城である。ニノ郭や三ノ郭は博物館や民家・畑となって改変されているが、主郭は城址公園として整備され、またニノ郭南郭も山林となって遺構が良く残っている。主郭は斜めにひしゃげた方形の曲輪で、周囲に土塁と空堀を廻らせ、東側の主郭虎口には木橋が掛かり、左袖の横矢掛かりの櫓台がそびえている。この城では多くの崖端城と異なり、主郭の崖側にも空堀が穿たれ、その外側に帯曲輪(ニノ郭西郭)が巡らされていることである。この帯曲輪とニノ郭南郭の接続点に向けて、主郭の搦手虎口が築かれている。この他、ニノ郭南郭にも土塁と空堀が残り、主郭北側の腰曲輪(ニノ郭北郭)にも土塁と空堀が残っている。空堀はいずれも直線的な造りで、飛山城と似た築城思想となっている。尚、城跡は一旦、建物が建設されるなど破壊を受けたが、その後発掘調査を経て復元整備されたらしい。大きな城ではないが、主郭周辺は非常によく遺構が残り、城址公園としては非常に素晴らしい。
主郭の土塁→DSC01909.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.667706/139.954701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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