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苦林野古戦場(埼玉県毛呂山町) [その他の史跡巡り]

IMG_0828.JPG←古墳上の石碑と解説板
 苦林野古戦場は、南北朝時代の古戦場である。1351年の観応の擾乱の時、実弟足利直義を破って室町幕府権力の一元化を成し遂げた足利尊氏は、薩埵山合戦の勝利に大きく貢献した宇都宮氏を上野・越後の守護とし、その重臣芳賀氏をその守護代に任じて、両者を鎌倉府の中核に据えた「薩埵山体制」を構築して鎌倉府の体制を刷新した。しかし尊氏が死ぬと、鎌倉公方足利基氏(尊氏の次男)は、かつて幼い自分を養育した重臣でありながら、直義方に付いたため尊氏に追放された上杉憲顕を、再び執事(関東管領)に復帰させようとした。1362年のことである。その為、まず宇都宮氏の越後守護職を取り上げ、元の憲顕を越後守護に任じた。この処置に守護代であった芳賀禅可が反発し、上杉方と越後で戦った後に南下して上野に入った。一方、基氏は、反旗を翻した禅可を討伐するため平一揆・白旗一揆らを引き連れて武蔵に着陣し、禅可と合戦を行った。これが武蔵岩殿山合戦と呼ばれる戦いで、苦林野はその主戦場であったと『太平記』に記載されている。この戦いに打ち勝った基氏は、宇都宮氏を討伐するためそのまま下野に進軍し、ここで宇都宮氏綱の降伏を受け入れた。これによって薩埵山体制は終焉を迎え、鎌倉府(鎌倉公方・関東管領)の歴史は新たな段階に入ることになった。
 尚、室町後期に生起した長尾景春の乱の際、景春派の討伐に当たった扇谷上杉氏の家宰太田道灌が、景春の部将矢野兵庫助と1477年にこの地で激突したと伝えられている。

 苦林野古戦場は、善能寺塁から北西に240mの付近にある。小さな前方後円墳の上に、石碑と解説板が建っている。また、古墳の後円部には江戸時代後期に建てられた供養塚が残っている。戦いの規模はそれほど大きくないが、中世関東の歴史の一つの転換点となった場所であり、感慨深い。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.964348/139.352018/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:古戦場
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