SSブログ

舘山城 その2(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1771.JPG←発掘された枡形の石垣
 舘山城には2009年4月に訪れていたが、今回5年半振りの訪城である(あれからまだ5年かぁ・・・)。当時はまだ発掘調査も行われておらず未整備で、しかもネット上の情報もほとんど皆無に近かったので、まさに手探りでの訪城だった。今回は、かなり発掘調査と整備が進んでいた。

 まず、山麓居館部である東館は、入口に「私有地に付 立入り大歓迎」という謎の(笑)標柱が建ち、広い平地が綺麗に草刈りされている。井戸跡の発見場所などが石と標柱で表示されている。いずれ国指定史跡にするつもりらしいから、いずれ予算がついたら建物跡などの表示も追加されていくのだろう。奥の林の中には大手虎口があり、往時のものと思われる直線上の小さな土塁が確認できる。ここから主郭(現地解説板では馬出曲輪)まで登る大手道が整備されている。
東館と舘山城→IMG_1674.JPG

 城内は、標柱がかなり整備されて中世城郭初心者でもわかりやすくなっている。主郭(馬出曲輪)西端の枡形虎口は近年大々的に発掘調査が行われ、櫓門土塁の底部から石垣が発掘されていた。石垣の積み方から、上杉景勝時代(実際に舘山城に手を加えたのは米沢を領した執政直江兼続であったろう)に築き直された石垣と考えられている様だ。おそらく総石垣の櫓門を備えた枡形となっていたと思われる。その後、関ヶ原合戦後の上杉氏大減封の時に、徳川家康から各地の城の破却を命じられて、石垣が崩されたのだろう。ただ、発掘調査で石垣が出てきたのはいいが、裏込石と思われるこぶし大の川原石が、主郭内に大量に積まれていて、景観を損ねていた。ニノ郭(現地解説板では主郭)・三ノ郭(現地解説板では曲輪Ⅲ)は標柱こそ建っているものの、あまり整備されておらず、特に三ノ郭はほぼ以前の薮のままである。尚、三ノ郭内には「修法壇」とされる小塚があった。

 この他、舘山城には、北館と南館が山麓平場にあるが、北館は発掘調査後に埋め戻されて現在ではただの平場の様だし、南館は山林のままで道もあるかどうか分からなかったので(現地解説板によれば曲輪Ⅲの堀切裏から道があるらしい)、時間の制約もあって未踏査である。

 今後どんな史跡整備がされるか、注視していきたい。

DSC06880.JPG←未整備時の枡形虎口


IMG_1704.JPG←発掘後の枡形虎口

※注記 <曲輪の呼称に関する見解について>
 米沢市による過去の調査報告書と現在設置されている解説板縄張図では、先端の曲輪Ⅰを馬出曲輪とし、最大面積を有する曲輪Ⅱを主郭としている。これについて私は全く賛同できない。
 まず曲輪Ⅰを馬出しとする見解であるが、これは東館から伸びる大手道を強く意識して、主郭に対する前衛の馬出しと考えているのであろうが、普通の城の造りから考えれば、石垣まで巡らした壮麗な枡形虎口は曲輪の「入口」に造るもので、出口に造るものではない。まして石垣が曲輪Ⅱに向いて残っていることからすれば、必ず曲輪Ⅱから曲輪Ⅰに進入したはずである。そうでなければ、石垣による防御力向上と来城者に対する美観向上には寄与しないであろう。
 次に曲輪Ⅱが最大面積だから主郭とする見解。最大面積を有し、内部に庭園跡を推測される窪地が残っていることから考えれば、ここには迎賓館的な建物があったと思われる。しかしだからと言って、それが主郭ということにはならない。鉢形城では迎賓館・庭園は三ノ郭から見つかっている。また城における主郭とは、城主が戦いの際に最後に拠る場所であり、必ず要害性の高い曲輪となる。舘山城は山城とは言うものの、実質的には崖端城であり、その主郭は必ず先端に置かれるはずである(狭小な笹曲輪は別)。
 これらのことから考えれば、曲輪Ⅰが主郭で、曲輪Ⅱをニノ郭とするのが妥当と考える。
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント