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矢子山城(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

IMG_1927.JPG←山中に残る石垣
 矢子山城は、歴史不詳の城である。江戸後期の史書によれば、第12代伊達成宗が葦名勢の進入に備えて築いたとされるが、確証はない。元々この地は「石切山」の名の通り石の切り出しを行っていた土地で、江戸時代から昭和30年頃まで採石されており、地形の改変が多く、あまり城跡と認識されて来なかったらしい。20年ほど前に米沢市による2年に渡る発掘調査が行われ、その結果の考察としては、慶長期の上杉氏時代頃に築城途中で放棄された未完成の山城が、その後の採石によって破壊されたものではないか、とされている。もちろん異説も多く、依然として謎が多い。

 矢子山城は、標高457.1mの石切山の東側山腹に築かれた城である。まずこの城の地勢が特異である。普通ならば山頂の尾根筋に何らかの施設を設けるのが普通であるが、それが全く見られない。この位置のため、この城に行くには南側山麓から伸びる作業用林道からでは行くことが難しい。東側から伸びる小道を登っていくのが正解である。例によって道が途中で途絶するので、そこからは斜面直登である。
 山腹には多くの平場が段々に築かれ、その中に発掘調査報告書にもある小規模な石垣が散在している。石垣の脇にある堀切状の通路は、発掘調査の結果、そのほとんどが石切り場の道として改変されたものと判明している。こうした通路や、石切による大きな窪地など改変が多く、どこまでが城郭遺構か判然としない。しかし石垣は明瞭で、切り石による切込み接ぎが多い。城郭遺構と考えたいが、石切道の脇に虎口的に積まれているものが多く、純粋な城郭遺構と考えるにはやや割り切れなさがある。しかし石切時の土留としても位置・形状的に機能が不明で、後世の改変による石垣とも単純には考えられない。また石垣の脇には櫓台的な高台があり、城郭遺構と考えて良さそうな部分もあり、非常に判断が難しい。結局、どちらとも断定しかねるというのが正直なところである。
 尚、南北に長く伸びた城域の北半分は、途中にスズメバチがブンブンたかっていて、そこから先の踏査は諦めた。
 苦労した割に消化不良気味の城で、何より城郭遺構なのかどうかが明確に判断しがたいのが辛い。
石垣→IMG_1880.JPG

 お城評価(満点=五つ星):-(城郭遺構と断定できないので採点なし)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.923971/140.058842/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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