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屋代楯(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2550.JPG←主郭背後の堀切
 屋代楯は、新宿柵とも呼ばれ、南北朝時代に置賜の国人領主長井氏が築いた国境警備の城と推測されている。1380年、伊達宗遠が長井庄に侵攻して長井氏を攻めた際、屋代峯で合戦があったと伝えられており、屋代楯を巡る攻防があったものと考えられている。また時期は不明だが(1385年か?)、宗遠の子政宗(儀山公)が長井庄に侵攻した際も屋代嶺で合戦があり、伊達方の関・渡部某が討死したと伝えられている。江戸時代後期の『米沢地名選』には、伊達氏の家臣遠藤吉兵衛盛利が屋代楯主であったが、伊達政宗(貞山公)が豊臣秀吉の命で岩出山に移封となり、上杉景勝の執政直江兼続が米沢に入るとこれに臣従し、慶長年間(1596~1615年)末期に再び伊達家臣となったと記載されている。また1600年の慶長出羽合戦の際には、屋代楯を巡って東方の玉ノ木原で伊達・上杉両軍が交戦したと言う。いずれにしても屋代楯は、国境警備上重要な位置にあったことから、置賜を領した歴代領主の長井氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏によって堅持されてきたものと見られている。

 屋代楯は、国道113号線の二井宿第2トンネルの上にそびえる、標高600mの山に築かれている。この城へはどこかに登り道もある様だが(最近整備され始めているらしい)、私は大滝不動尊から斜面を直登した。広い城域を持った城で、城内は大きく5つの曲輪群に分かれ、それぞれ独立性が高く一城別郭的な構成となっている。最高所にある主郭(Ⅰ郭)は、前面に数段の段曲輪を伴った小規模な曲輪で、後部に小さな物見台(或いは宗教的な土壇か?)を有し、背後に2本の堀切で北尾根からの接近を防御している。主郭の南西にはⅡ郭があり、城内では最も広い曲輪で、北側に横堀を廻らし、この横堀はそのままL字状に曲がってⅠ郭群との間の掘切を兼ねている。Ⅱ郭南側に2段の腰曲輪があり、西側斜面に竪堀が穿たれている。Ⅱ郭の南東に谷戸を挟んでⅢ郭がそびえている。Ⅲ郭は円丘状の曲輪群で、周囲に帯曲輪を巡らした物見台的なもので、西側に坂虎口と横堀を廻らしている。Ⅲ郭北側の谷戸には水の手と思われる池と、溜池を作っていたと思われる土塁(堰)が築かれている。ただこの堰状の土塁は、後世の農地の水溜を作っていたものかもしれない。Ⅲ郭の南西の平場の先に、Ⅳ郭がある。Ⅳ郭は腰曲輪に囲まれた丘状の曲輪であるが、削平は甘く、自然地形に近い。Ⅳ郭~Ⅴ郭間は平坦な平場が広がり、途中にL字状の低土塁と浅い空堀が築かれ、Ⅴ郭との間を区分している様である。Ⅴ郭は城域最南端に位置する東西に長い物見台状の曲輪で、西側に3段程の段曲輪を有し、間に浅い掘切が穿たれている。最下段の切岸にはわずかに石積みと見られる跡も見られる。

 屋代楯は、基本的には室町前期頃までの古い形態を示しているが、一部にやや技巧的な遺構も見られ、戦国初期まで存続していたもののように見受けられる。しかし戦国後期の城の様な大規模な普請は少なく、奥州山脈で分断された伊達氏の東西の領国を繋ぐ、繋ぎ城の様な役目が主体だった様に思われる。
Ⅱ郭の横堀→IMG_2522.JPG
IMG_2445.JPG←Ⅲ郭の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.018963/140.281521/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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