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館ヶ崎楯(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2721.JPG←北尾根の二重掘切
 館ヶ崎楯は、明徳年間(1390~93年)に後藤孫兵衛(後藤肥前とも言われる)が楯主であったと言われる城である。その他の歴史は不明であるが、伊達氏の家臣の城として戦国期まで存続したものと考えられる。

 館ヶ崎楯は、標高286m、比高わずか40m程の独立小丘に築かれた城である。大きく3つのブロックから構成された城で、主郭を中心とした主城部と、北出丸、東出丸から構成されている。主郭は幅が狭く細長い曲輪を中心に、幾重にも帯曲輪群を巡らした、置賜の伊達氏系城郭に多い多段式の構造で、特にこの城では主郭が狭小で、ほとんど居住性を持っていない。従って、あくまで有事の際の詰め丸の位置付けだったと考えられる。大手は西側にあったらしく、段曲輪群の先に大手虎口跡と推測される石積みが確認できる。主郭群の北の段曲輪から東に向かって城道が伸び、東出丸への接続部に小さな枡形虎口が築かれている。その先に平場が続き、腰曲輪に囲まれた小丘状の東出丸がある。頂部は狭小で、物見台以上の役目はなかった様だ。主郭群の北麓には、北尾根を分断する二重掘切と、それに繋がる横堀、その下方に数本の竪堀群が穿たれている。北に続く尾根に曲輪数段が築かれ、西尾根に小堀切、北にも横堀が尾根を掘り切っており、この横堀から落ちる竪堀を城道として、谷戸に平場群が築かれている。更に北尾根に舌状の曲輪が続き、北出丸がそびえている。ここには祠が祀られ、西麓から参道が伸びている。北出丸も腰曲輪群で囲繞されている。この北側には尾根を遮断する長大な三重掘切が穿たれている。この三重掘切は東麓に向かって長く伸びたもので、規模は異なるが丁度畑谷城の西部三重堀の様な堀である。

 館ヶ崎楯は、掘切や横堀を組み合わせた中々技巧的な城で、決して規模の大きな城ではないが、非常に面白い。また訪城時に、縄張り図作成中の方が居り、ちょっとした城談義ができたのも楽しい一時だった。
主郭の帯曲輪群→IMG_2724.JPG
IMG_2788.JPG←主郭群西麓の石積み
北端の三重掘切→IMG_2688.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.961084/140.193920/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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