館山楯(山形県川西町) [古城めぐり(山形)]
←山腹を巡る二重横堀
館山楯は、伊達氏の譜代家臣西大枝氏の城であったと伝えられている。西大枝氏は、伊豆の豪族伊東氏の流れと言われるらしく、「伊藤」の別姓を持っていたと言う。源頼朝の奥州合戦の際、阿津賀志山合戦での戦功により文治年間(1185~89年)に伊達朝宗が伊達郡に入部した際、西大枝氏もこれに従って坂東から下向して西大枝郷(福島県国見町)を領し、姓を改めて西大枝氏を称したとされる。館山楯主の西大枝氏は、おそらくこの西大枝郷を本貫とする西大枝氏の支族で、伊達氏が長井氏を滅ぼして置賜を併呑すると、置賜支配の為にこの地に入部したものであろう。17代義綱孫四朗は、1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、これに従ったと言う。
館山楯は、標高433.6m、比高140mの館山山頂に築かれた城である。館山には現在明確な登道がないようで、私は北東麓の寺の背後から尾根筋を登った。館山は比較的緩やかな山容で、辿った尾根も広幅の緩い尾根なので、マーキングを付けながらでないと帰りに迷う可能性が大きい。(山頂近くに行くと道が現れたが、下りの途中で消失していた。)
館山楯は、柳沢楯に酷似した縄張りで、城内は多重帯曲輪群で囲繞した多段式の曲輪を中心とし、城の外周のほぼ全周を二重横堀で囲んだ豪壮な山城である。中心の最高所に主郭を置き、北西に伸びる尾根上に北郭、南に伸びる尾根上に南郭を配置し、全体は逆「く」の字に曲がった曲輪配置となっている。それぞれの曲輪には全て数段の帯曲輪が巡らされ、その外周に前述の通り二重横堀が延々と巡らされている。また山頂から派生する4つの尾根(北・北西・南西・南東)は、いずれも二重横堀と繋がった二重掘切で分断し、更にそこに竪堀状虎口などを連携させている。北尾根のものは掘切を西側で直角に曲げて二重竪堀で落とし、北西尾根のものは掘切から横堀・竪堀にY字状に分岐させ、南東尾根のものは二重竪堀を穿つなど、中々複雑な構造を採っている。虎口については、東・北東・西・南東の4ヶ所が確認できる。いずれも多重枡形を用いた複雑なもので、幾重にも動線を屈曲させている。特に複雑なのは北東と南東のもので、北東ではL字状の枡形土塁の外側に横堀を屈曲させ、また竪堀状虎口を内堀・外堀の連絡路として構築し、これを枡形虎口と連携させている。南東では枡形の規模は小さいが、動線がクランクした内枡形の外に更にジグザグに動線を屈曲させた構造である。各パーツの規模はそれほど大きくはないが、非常に巧妙な縄張りで、伊達氏の築城技術の一つの到達点を示した、戦国末期の遺構と考えられる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.927855/139.974769/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
館山楯は、伊達氏の譜代家臣西大枝氏の城であったと伝えられている。西大枝氏は、伊豆の豪族伊東氏の流れと言われるらしく、「伊藤」の別姓を持っていたと言う。源頼朝の奥州合戦の際、阿津賀志山合戦での戦功により文治年間(1185~89年)に伊達朝宗が伊達郡に入部した際、西大枝氏もこれに従って坂東から下向して西大枝郷(福島県国見町)を領し、姓を改めて西大枝氏を称したとされる。館山楯主の西大枝氏は、おそらくこの西大枝郷を本貫とする西大枝氏の支族で、伊達氏が長井氏を滅ぼして置賜を併呑すると、置賜支配の為にこの地に入部したものであろう。17代義綱孫四朗は、1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、これに従ったと言う。
館山楯は、標高433.6m、比高140mの館山山頂に築かれた城である。館山には現在明確な登道がないようで、私は北東麓の寺の背後から尾根筋を登った。館山は比較的緩やかな山容で、辿った尾根も広幅の緩い尾根なので、マーキングを付けながらでないと帰りに迷う可能性が大きい。(山頂近くに行くと道が現れたが、下りの途中で消失していた。)
館山楯は、柳沢楯に酷似した縄張りで、城内は多重帯曲輪群で囲繞した多段式の曲輪を中心とし、城の外周のほぼ全周を二重横堀で囲んだ豪壮な山城である。中心の最高所に主郭を置き、北西に伸びる尾根上に北郭、南に伸びる尾根上に南郭を配置し、全体は逆「く」の字に曲がった曲輪配置となっている。それぞれの曲輪には全て数段の帯曲輪が巡らされ、その外周に前述の通り二重横堀が延々と巡らされている。また山頂から派生する4つの尾根(北・北西・南西・南東)は、いずれも二重横堀と繋がった二重掘切で分断し、更にそこに竪堀状虎口などを連携させている。北尾根のものは掘切を西側で直角に曲げて二重竪堀で落とし、北西尾根のものは掘切から横堀・竪堀にY字状に分岐させ、南東尾根のものは二重竪堀を穿つなど、中々複雑な構造を採っている。虎口については、東・北東・西・南東の4ヶ所が確認できる。いずれも多重枡形を用いた複雑なもので、幾重にも動線を屈曲させている。特に複雑なのは北東と南東のもので、北東ではL字状の枡形土塁の外側に横堀を屈曲させ、また竪堀状虎口を内堀・外堀の連絡路として構築し、これを枡形虎口と連携させている。南東では枡形の規模は小さいが、動線がクランクした内枡形の外に更にジグザグに動線を屈曲させた構造である。各パーツの規模はそれほど大きくはないが、非常に巧妙な縄張りで、伊達氏の築城技術の一つの到達点を示した、戦国末期の遺構と考えられる。
弧を描く二重横堀→
←同じく二重横堀薮に埋もれた複雑な枡形虎口→
←北西の二重掘切お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.927855/139.974769/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
あ明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
by ねじまき鳥 (2015-01-02 19:08)
>ねじまき鳥さん
こちらこそ、明けましておめでとうございます。
いつもご訪問いただきありがとうございます。
本年も引き続きご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。
by アテンザ23Z (2015-01-02 21:37)
明けましておめでとうございます。
山形の城は四月になっても雪まみれの所も多いので、城巡りにいい時期が限られている事もあり、自分はなかなか行けませんが、、アテンザさんが、うらやましい限りです!
五つ星ですか?また一つ行かなくては行けない所が増えました 笑
今年も時々覗かせていただきます、よろしくお願いします。
by 山村刑事 (2015-01-04 13:26)
>山村刑事さん
明けましておめでとうございます。
本年もご愛顧の程よろしくお願い致します。
今書いている山形の城は11月下旬に行ったのですが、その時はまだ雪の「ゆ」の字もなくて、この分なら12月第1週でも行けるかな、と画策していたのですが、直後にいきなりのドカ雪で、あっという間にシーズンオフになってしまいました・・・。
この次は春になってしまいますね、山形の城は。
5月中旬になると、シダが爆発したみたいにボコボコ生えてくるので、すぐに薮に覆われてきてしまいますが、何とか5月一杯は行けると思いますので、春なら4月・5月が勝負です。
by アテンザ23Z (2015-01-04 22:02)
>山村刑事さん
ちなみにブログには書いていないのですが、この城、Google Mapの航空写真やGoogle Earthで見ると、外周を巡る二重横堀が残雪でくっきりと見えるんです。一度確認してみてください。
by アテンザ23Z (2015-01-04 22:10)
今年行ける可能性は低そうですが、何とか時間が作れたら訪問し確認したいと思います。
最近は用で関西に行く事が多いですが、時間を縫ってのメジャーな城跡の再訪ばかりです、、
そう言えば玉縄城中心部はほぼ全て遺構探索しましたが、他には陣屋坂の途中の馬場が有ったと言われていて現在マンションが有る辺りの下方に腰郭らしき平場、円光寺郭付近の民家脇に土塁ぽい土盛りが有った位で、他に知られていない様な遺構は無いようです。もし再訪されたら見てみてください。
by 山村刑事 (2015-01-12 19:09)
>山村刑事さん
情報いただきありがとうございます。
玉縄城ですが、お正月にGoogleMapで調べていたら、七曲坂の所に保育園が建ってしまったんですね。私が行った時は、まだ着工前でしたが。鎌倉市は、この期に及んでまだ玉縄城の景観を破壊するのかと、愕然とする思いです。本当にこれ以上の破壊は、一刻も早くやめて欲しいところです。
by アテンザ23Z (2015-01-12 20:04)