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五月女坂古戦場(栃木県さくら市) [その他の史跡巡り]

DSC02046.JPG←宇都宮尚綱の供養塔
(2006年12月訪問)
 五月女坂古戦場は、早乙女坂とも書き、戦国時代中期に宇都宮氏と那須氏が激戦を繰り広げた古戦場である。宇都宮氏20代尚綱(俊綱)は、1541年、対立していた重臣の真岡城主芳賀高経を児山城に攻め滅ぼし、家中を統制した。高経の子高照は奥州白河に逃れ、益子氏出身の芳賀高定が尚綱の支持の下、芳賀氏の当主となった。1549年、白河にいた芳賀高照は那須氏の支援を得て宇都宮氏を攻撃し、一方尚綱は、2千余騎と言われる軍勢を率いて、那須氏の拠点倉ヶ崎城(喜連川城)に向けて出陣した。那須氏は兵力わずか500騎であったが、宇都宮勢の進軍路の途中にあった五月女坂に伏兵を潜ませてこれを迎え撃った。奇襲を受けた宇都宮勢は浮足立ったが、危地に陥った当主尚綱を庇って、上三川城主横田綱維ら5兄弟が枕を並べて討死するなど、必死に防戦し双方激戦となった。その最中に、那須方の鮎ヶ瀬弥五郎実光が放った矢が尚綱に当たり、尚綱は討死してしまった。総大将を喪った宇都宮勢は崩れたって大敗し、那須氏の大勝利となった。喜連川の領民は、危機を救った弥五郎への感謝の念を込めて、以後、五月女坂を「弥五郎坂」と呼ぶようになり、現在に至っている。

 五月女坂古戦場は、国道293号線から分岐した間道にある。元々はこちらが本道で、現在の国道は新たに作られた新道である。平野部から喜連川に向かって北東に坂道を登り始めた所に「早乙女坂古戦場」の標柱が建ち、その上に討たれた宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建っている。ここは、下野の戦国史の重要な一コマであり、位置の異なる新道に「弥五郎坂」の名が受け継がれていることは、いかにこの地の人達にとって重要な出来事であったかを物語っている。今ではこの道を通る車は少なく、新道を行き交う人からはその名の由来も忘れられつつあるのだろうが、喧騒よりも静かな風景の方がこの古戦場には似つかわしい。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.702171,140.007942&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:古戦場
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