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吉橋城(千葉県八千代市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5692.JPG←主郭先端の掘切
 吉橋城は、伝承では戦国時代に高木(高城?)伊勢守胤貞が城主であったとされる。高木氏は、一説には小金城主高城氏の一族とも言われるが、明証はない。また1536~7年頃に、小田原北条氏に攻められて落城したと言う説もあるが、これも定かではない。この頃の北条氏は、まだ扇谷上杉氏との攻防の真っ最中で、しかも小弓公方足利義明が勢威を振るっていた頃である。仮に北条勢が吉橋城を攻めたことが事実だとすると、それは1538年の第一次国府台合戦の余波であろう。伊勢守が小弓公方方として国府台合戦の敗戦後に籠城していたとすれば、北条勢に攻められたことも考えられるだろう。しかし真相は闇の中である。

 吉橋城は、桑納川南岸の比高15m程の段丘先端に築かれた城である。遺構が明瞭なのは方形の主郭だけであるが、背後の貞福寺の寺域はニノ郭だったとされる。貞福寺は1394年に建立されたというから、寺院を室町・戦国期に城塞化したものかもしれない。いずれにしてもニノ郭の遺構はわずかでほとんど湮滅している。主郭は現在ゲートボール場になっていて、外周に土塁が良く残っている。主郭の南東角には隅櫓台が張り出して、現在車道となった堀底に向かって横矢を掛けている。また主郭の北東に伸びる尾根には掘切が穿たれて防御を固め、掘切の北端からは主郭に通じる虎口があって、側面を竪土塁で防御されている。また主郭の西側には窪地状の腰曲輪があり、物見台状の土壇が車道沿いに築かれている。ニノ郭は貞福寺の墓地裏にわずかに土塁を残すのみである。妙見社の祀られた土壇も土塁の跡かもしれない。現在残る遺構は比較的僅かで、どれほど城域が広がっていたのかは、全くわからない。
主郭の隅櫓台上の土塁→IMG_5668.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.745389,140.087464&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世崖端城
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