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山之城(千葉県鴨川市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6010.JPG←段曲輪の一つ
 山之城は、安房里見氏の重臣正木氏の初期の居城である。正木氏の出自は相模の豪族三浦氏と言われ、一説には新井城主三浦時高が養子の義同(道寸)に攻め滅ぼされた際、その幼い実子弥次郎が乳母に抱かれて海路安房に逃れ、里見成義の庇護を受けた。弥次郎は長じて正木大膳亮時綱と名乗って正木氏の祖となり、里見義通(成義の子)の妹を娶って里見氏の一族に連なる重臣となった。義通死去後に神余・丸氏らの遺臣や末裔が大井城三原城等に拠って里見氏に背いた際には、時綱が討伐してこれを降し、その功によって長狭と三原・正木両郷を与えられ、山之城を築いて本拠としたと言われている。1533年、里見氏の内訌「天文の乱」の際には、里見義豊が叔父実堯を稲村城に攻め滅ぼした時、時綱の長男弥次郎は稲村城で討死し、次男弥九郎時茂は負傷して山之城に敗退した。義豊の部将糟屋石見は山之城を攻め、時綱は瘡を発して没し、若干13歳の3男時忠が自ら先鋒となって撃退し、糟屋を討ち取ったと言う。翌34年、今度は実堯の嫡子義堯が小田原の北条氏綱の支援を得て、父の仇である義豊討伐に挙兵すると、時茂・時忠兄弟は義堯に味方して犬掛合戦や稲村城攻めに軍功を挙げた。そして時茂は正木大膳亮と称して夷隅に進出し、大多喜根古屋城に居城を移して、「槍大膳」の勇名を轟かせた。一方時忠は、正木左近太夫と称して勝浦城を本拠とした。山之城は、この頃に役目を終えたものと思われる。

 山之城は、嶺岡浅間の北東に伸びる尾根上に築かれた城である。正木氏の初期の城らしく、ほとんど段曲輪群だけで構成された古い形態の城である。山之城へ行くには、その背後にまで伸びる廃道が山中に残っており(国土地理院地形図に記載されている細道)、そこから北に登ればすぐ城域に入れる。城の付近には古道が通っていた様なので、近世の改変の可能性があってはっきりしないが、南山腹に掘切や西側山腹に横堀が確認できる。峰には狭小な主郭があり、その下に広いニノ郭が広がっている。主郭背後には浅い掘切を介して、物見的な曲輪があり高土塁を伴っている。ニノ郭の先にも削平のはっきりした段曲輪群が何段も構築されており、一部に石積みが確認できる。ただ城内を通る古道に沿っているものが多く、近世の構築とも考えられるが、『日本城郭大系』では遺構と考えている様だ。普請ははっきりしているが、未整備で藪がひどく、遺構的にも見所は少ない。山之城の出城とも言うべき「とうしろ台城」の方が見応えがあり、築城年代もやや降る様である。
主郭背後の掘切→IMG_5984.JPG
IMG_6025.JPG←城内に見られる石積み
西側山腹の横堀→IMG_6037.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.110773,140.025558&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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