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有木城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_6553.JPG←民家脇の土塁
 有木城は、蟻木城とも記載され、戦国後期に小田原北条氏が新造した城である。1571年、北条氏政は「御本城様」氏康の死と共に、実効性の薄かった越後上杉氏との越相同盟を破棄し、再び甲斐武田氏との間に甲相同盟を結んだ。これを機に、それまで駿東や北武蔵で武田勢の攻勢に晒されていた北条氏は、後顧の憂い無く東に兵を進めることができるようになり、周辺の敵性勢力に対して攻勢を掛けるようになった。1574年には、要衝関宿城を攻略して簗田氏を完全に従属させ、古河公方権力を完全に併呑した。翌75年になると、北条氏の経略の矛先は下野小山氏と安房里見氏へと向けられた。同年12月には祗園城を攻め落とし、小山秀綱を佐竹氏の元に逐って小山氏を没落させた。更に76年冬、北条勢は再び上総に侵攻し、土気東金の両酒井氏を服属させ、新たに有木城を築いて里見氏に圧力を加えた。有木城は、北条氏が南の里見氏攻略の為、兵站の中継基地として築いた最前線の陣城だったのだろう。この後、更に攻勢を強めた北条氏は、77年11月、里見義弘と和睦を結び、同盟関係を成立させた。同盟とは言うものの、北条氏の優勢下に結ばれたもので、実質的に里見氏の敗北に近いものであった。このようにして房総を平定した北条氏は、北関東への本格的攻略を進めることとなった。

 有木城は、比高わずか10m程の台地南端に築かれた城である。城址一帯は宅地化による改変が進み、遺構はほとんどまともに残っていない。主郭は南端の「田曲輪」と呼ばれる部分にあったとされるが、民家のため進入はできない。また隣接する八幡神社境内も曲輪だったとされ、土塁が見られるが、さすがにこれは神社建立によるものだろう。その脇のクランクする道路は、堀跡だったとされる。北にやや離れた民家の脇に、土塁の残欠が数ヶ所残っているが、城がどの様な縄張りだったのかを再現するのはもはや難しい。北条氏の房総平定に直結する重要な城であったはずだが、存続期間が短かったためか遺構の残りが悪く、残念である。
堀跡の道路→IMG_6536.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.47403,140.128169&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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