小野山城(千葉県市原市) [古城めぐり(千葉)]
←三ノ郭と二ノ郭切岸?の段差
小野山城は、歴史不詳の城である。小田原北条氏が築いた有木城の南東わずか300mの位置にあり、有木城の出城であったと推測される。伝承では、1590年の小田原の役の際に、北条方の小野修理亮が城主であったが、豊臣方の浅野長政により攻略されたとも言われるが、有木城の状況を見ると、それまで存続していたかは疑わしいように思う。
小野山城は、比高15m程の南北に長い台地上に築かれている。南北に連なった3つの曲輪から構成されていたと言われるが、主郭・二ノ郭は市西小学校の敷地に変貌しており、遺構は湮滅している。その北に一段低く三ノ郭が残っているが、一部は学校のプールが建設されて改変されている。しかし小学校敷地の北端の段差部は往時の切岸そのままの様にも思われる。三ノ郭の北麓にも腰曲輪がわずかに残っている。この他、台地西側の車道の脇に腰曲輪らしい平場が残っている。小野山城は、有木城よりも面積が狭い一方、要害性がより高い地勢であることから、北条氏の軍団のベースキャンプであった有木城の南方を防衛する要害であったのかもしれない。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.470955,140.130658&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
小野山城は、歴史不詳の城である。小田原北条氏が築いた有木城の南東わずか300mの位置にあり、有木城の出城であったと推測される。伝承では、1590年の小田原の役の際に、北条方の小野修理亮が城主であったが、豊臣方の浅野長政により攻略されたとも言われるが、有木城の状況を見ると、それまで存続していたかは疑わしいように思う。
小野山城は、比高15m程の南北に長い台地上に築かれている。南北に連なった3つの曲輪から構成されていたと言われるが、主郭・二ノ郭は市西小学校の敷地に変貌しており、遺構は湮滅している。その北に一段低く三ノ郭が残っているが、一部は学校のプールが建設されて改変されている。しかし小学校敷地の北端の段差部は往時の切岸そのままの様にも思われる。三ノ郭の北麓にも腰曲輪がわずかに残っている。この他、台地西側の車道の脇に腰曲輪らしい平場が残っている。小野山城は、有木城よりも面積が狭い一方、要害性がより高い地勢であることから、北条氏の軍団のベースキャンプであった有木城の南方を防衛する要害であったのかもしれない。
北端の腰曲輪→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.470955,140.130658&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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