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牛久城(茨城県牛久市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8355.JPG←主郭掘切の横矢掛かり
 牛久城は、常陸の名門小田氏の庶流岡見氏の居城であり、戦国末期には小田原北条氏の対佐竹の最前線となった城である。岡見氏は小田氏の一流であるには違いないが、系譜には諸説あってその出自を明確にできない。岡見氏は当初、岡見城を居城としていたが、天文年間(1532~55年)後半に牛久城を築いて本拠を移したと言われている。岡見氏は始め小田氏に属していたが、小田氏治は1569年に手這坂合戦で佐竹勢に大敗し、そのまま佐竹義重によって本拠の小田城を逐われると、岡見治広は独立した勢力となった。その後天正年間(1573~92年)に入ると、治広は南進する佐竹氏と通じた下妻城主多賀谷重経の激しい攻勢に晒され、北条氏に支援を求めた。北条氏は牛久城を佐竹氏とその与党勢力の南進を抑える重要拠点と位置付け、小金城主高城氏・布川城主豊島氏・坂田城主井田氏・大崎城主国分氏など北総諸将を交替で城番に当たらせた。いわゆる「牛久番」である。この頃に、北条軍団の最前線の駐屯地として、牛久城は大規模に拡張されたものと考えられる。これらの甲斐あって牛久城は落城すること無く守り切ったが、1590年の小田原の役の際に牛久城も落城し、岡見氏は没落した。その後、豊臣秀吉の特別の計らいで、上野の由良国繁が牛久城に封じられた。これは、北条氏に子の由良国繁・長尾顕長兄弟を人質に取られながら、孫を当主に押し立てて豊臣勢に与力して家名存続を図った老母妙印尼に対して、秀吉が格別の感情を抱いたものらしい。1623年に牛久城は廃城となった。

 牛久城は、牛久沼北岸の台地上に築かれた城である。主城部は台地の南端部に位置するが、そこから更に北や西に続く台地も外郭として取り込んだ、広大な城である。現在は外郭部分は宅地化が進み、遺構は断片的に残っているに過ぎないが、主城部の遺構はほぼ完存し、現在はかなり整備されて遺構が見易くなっている。北条氏によって改修された城らしく、随所に横矢掛かりが徹底され、一つとして横矢の掛かっていない空堀は無いほどである。主城部は、現地縄張図等では南端に位置して土橋の架った曲輪が主郭とされるが、その北に位置するⅡ郭の方が高所に位置し、全周を土塁で囲繞され、周囲の空堀への横矢掛かりも周到なことから、実際にはⅡ郭が主郭として機能したと思われる。この主郭の北東角の横矢の櫓台は、S字状に曲がった土塁の側方に小平場を設けて、両側への迎撃拠点とする様な巧みな構造も垣間見られる。尚、主郭の横矢櫓台は、いずれも平場という程の面積を持たず、どうも北条支配時代の改修による後付けっぽい印象がある。主郭・ニノ郭の西側には土塁で囲まれた三ノ郭があり、ここも外周の空堀に対して横矢を掛けている。周りには腰曲輪も築かれ、最下段には船着場の様な低地も確認できる。主城部の北の大手には、巨大な空堀と馬出しを兼ねた帯曲輪が築かれ、土橋に横矢が掛けられている。この他に、外郭にも遺構が数ヶ所に散在している。主城部のすぐ北側に位置する「中城」地区の北西部や、近世牛久陣屋跡である西端台地の北東部、愛宕神社裏や得月院の墓地裏等に横堀・土塁・隅櫓台・土橋といった遺構が眠っている。牛久城は、さすが「城の北条」だけあって、藪が刈られた土塁で囲まれた三ノ郭など、溜め息が出るほど美しい造形である。
土塁で囲まれた三ノ郭→IMG_8342.JPG
IMG_8235.JPG←陣屋跡付近の土橋と空堀
愛宕神社裏の空堀→IMG_8201.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.952971,140.134563&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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