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真名子城 その2(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9615.JPG←広大な大手郭
 真名子城には、もう8年も前に訪れているが、近年になって解説板が建つなど整備が進んだらしく、また南西部に見逃した遺構群があることも分かったので、久しぶりに訪城した。

 真名子城は、戦国初期の永正年間(1504~21年)に宇都宮城主宇都宮忠綱の子元綱が築いたと言われている。その後、皆川氏に対する備えとして、家臣の岡本秀卓を城代とした。1523年の河原田合戦で、激戦の末、忠綱が皆川氏に敗れると、岡本氏は皆川氏に降伏して真名子城は皆川氏の支城となった。戦国末期に皆川広照が、北関東への勢力拡張を強力に進める小田原北条氏に降ると、真名子城には別府秀賢が客将として配されたらしい。1590年の小田原の役の際には、岡本氏は皆川氏と共に北条方に付いたが、城中で病没し、家名断絶して真名子城も廃城になった。

 真名子城は、山頂の主郭を中心に環郭式に腰曲輪が取り巻き、更に四方に伸びる尾根上に腰曲輪を設け、要所を掘切で分断した、典型的な縄張りの山城である。それらの内容は、以前にも書いた通りであるが、この城の最大の遺構は、実は前回未踏査だった南西部にあった。こちらは大手に当たり、大規模な曲輪群が築かれている。尾根先端部に綺麗な三角形をした大手郭があり、その背後に比較的規模の大きなしっかりした二重掘切が穿たれている。この城の他の掘切とは全く大きさが異なっており、思いの外の規模に驚愕する。その背後にも何段も腰曲輪群が展開しており、大手道を厳重に警戒していたことがわかる。真名子城の東隣には、宇都宮氏の支城西方城があるが、面白いことに真名子城の防御構造の主体は、前述の通り西に向いている。これは、地勢の制約上、このような形となったものだろう。城の向きと、敵方の方向が一致しない縄張りの好例で、中世城郭の築城思想を考える良い材料を与えてくれている。

 尚、以前の記事では現地標柱に従って「赤壁城」と記載していたが、新しい現地解説板も真名子城に呼称が改められ、その名称の方が広く通用していることから、本項では真名子城に名称を改めた。
側面から見た大手の二重掘切→IMG_9641.JPG

 場所:【大手郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.471770/139.706665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


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tochi

真名子城跡、西方城跡は現在個人の私有地となっています
西方町に貸し出してている感じですかね
西方町にお住いの方(大地主さん)が持っています

by tochi (2015-04-03 12:54) 

アテンザ23Z

>tochiさん
そうなんですか!太っ腹の地主さんですね。素晴らしいと思います。町(今は「市」ですね)はこうした好意を無にしないよう、定期的な下草の手入れなど、継続していって欲しいですね。
by アテンザ23Z (2015-04-03 18:51) 

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