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木原城(茨城県美浦村) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0729.JPG←主郭の空堀
 木原城は、江戸崎城主土岐氏の支城である。城主は土岐氏の家臣近藤氏で、応永年間(1394~1428年)の頃に近藤利貞によって築かれたと言われている。以後近藤氏が代々城主を務めた。戦国時代に入ると、江戸崎土岐氏は小田氏や佐竹氏と抗争を繰り広げるようになった。1562年、土岐治英は木原城を修築して近藤利勝に守らせた。この時の関東は、関東管領の名跡を受け継いだ越後の上杉謙信と、北へ北へと勢力を拡張する小田原の北条氏康によって激しい抗争が繰り広げられ始めた頃で、そうした情勢変化に伴って木原城も整備拡張されていったものと見られる。翌63年には、土岐氏は北条氏と同盟を結んでおり、以後北条方の最前線の城の一つとなった。戦国末期には、北関東へ激しい攻勢を掛ける北条氏直と、反北条同盟の盟主的立場となって鋭く対立した佐竹義重との間にあって、木原城は厳しい軍事的緊張下に置かれることとなった。1590年の小田原の役の際、江戸崎城と共に木原城も開城し、そのまま廃城となった。

 木原城は、霞ヶ浦にほぼ面した比高20m程の段丘上に築かれた城である。台地先端に主郭を置き、その東側に空堀を挟みつつニノ郭・三ノ郭や外郭を連ねた、梯郭式の縄張りとなっている。現在、主郭は城址公園として整備され、ニノ郭は畑等に変貌している。各曲輪は広大で、地方豪族の一家臣の城としては、不似合いな程規模が大きい。主郭・ニノ郭には空堀に沿って高土塁もよく残り、堀底に対して横矢を掛ける要所には隅櫓台が築かれて防御を厳重にしている。この他に木原城には、外郭にも遺構が残っている。三ノ郭北東には大手郭が残るが、民家のため外周しか確認することができない。一方、三ノ郭南西の道路脇の藪の中には、南虎口の枡形土塁が一部残っている。また永巌寺裏の丘陵背後には、大規模な二重堀が残っている。二重堀の北端から100m程南には土橋の架かった枡形虎口が確認できる。また一部に畝堀も見られる。更にこの外郭の外には物見砦の小丘があって、曲輪群と掘切が残っている。木原城は、外郭部が非常に広大な城であるが、外周を廻る二重堀の総構えから考えると、これほど広いのは軍事駐屯を目的としたよりも、敵軍侵攻時の領民保護の為の様に感じられた。いずれにしても北条氏の築城技術の影響を強く受けていると考えられる。
ニノ郭の高土塁→IMG_0751.JPG
IMG_0832.JPG←外郭の大規模な二重堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.020729/140.289960/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【2019年1月再訪】
 久しぶりに再訪したところ、永巌寺裏の丘陵地が薮がきれいに伐採されて整備されていた。ご住職が木原城の一郭として後世に伝えようという努力の賜物であり、感謝に堪えない。何でも行政は永巌寺辺りの遺構を破壊して県道を通そうとしていたらしいが、ご住職等が頑強に反対したために遺構が残されたそうである。日本の行政の文化財保護へのリテラシーの低さは、何とかならないものだろうか?
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