蒲生田館(山形県南陽市) [古城めぐり(山形)]
←主郭周囲の堀跡
蒲生田館は、1522年に蒲生右近大夫賞積(ちかつぐ)と言う武士が築いたと言われている。賞積の子賞範の時、姓を蒲生と改めたとされる。また別説では、文禄年間(1592~96年)に蒲生氏郷の陣城であったとも言われるが、蒲生の名による仮託であろう。
蒲生田館は、蒲生田集落の西側にある平城である。城内は一面の果樹園に変貌しているが、主郭は周囲より一段高くなった微高地となって、ほぼその輪郭を残している。主郭周囲は一段低くなっており、堀跡であることが明瞭であるが、かなり埋められていると思われる。『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図によれば、主郭の周りに方形に近い北曲輪や、帯曲輪状の西曲輪・南曲輪があったとされるが、これら外周の曲輪は改変が進み、原型をあまり留めていない。この城跡は果樹園なので、夏は見学不能であろう。下手に入ると果物泥棒と間違えられる可能性が非常に高い。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.059986,140.141097&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
蒲生田館は、1522年に蒲生右近大夫賞積(ちかつぐ)と言う武士が築いたと言われている。賞積の子賞範の時、姓を蒲生と改めたとされる。また別説では、文禄年間(1592~96年)に蒲生氏郷の陣城であったとも言われるが、蒲生の名による仮託であろう。
蒲生田館は、蒲生田集落の西側にある平城である。城内は一面の果樹園に変貌しているが、主郭は周囲より一段高くなった微高地となって、ほぼその輪郭を残している。主郭周囲は一段低くなっており、堀跡であることが明瞭であるが、かなり埋められていると思われる。『山形県中世城館遺跡調査報告書』の縄張図によれば、主郭の周りに方形に近い北曲輪や、帯曲輪状の西曲輪・南曲輪があったとされるが、これら外周の曲輪は改変が進み、原型をあまり留めていない。この城跡は果樹園なので、夏は見学不能であろう。下手に入ると果物泥棒と間違えられる可能性が非常に高い。
主郭の塁線と堀跡の水路→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.059986,140.141097&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世平城
2015-05-30 02:00
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