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亀岡楯(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_2788.JPG←畝のある主郭掘切
 亀岡楯は、歴史不詳の城である。『山形県中世城館遺跡調査報告書』では、その位置と構造から伊達氏の置賜進出以前に築かれたものと推測しているが、伊達氏の持ち城となってからも、高畠城を防衛する周辺城砦群の一翼を担ったり、物見や烽火台として使用されたものと見られる。一方、現地解説板では戦国時代の構築としている。伝承では安元年間(1175~77年)に山木判官景隆がこの地に住し、1380年に伊達氏に滅ぼされ、その後神岡茂広、飯坂蔵人左衛門が領し、1591年の伊達政宗の岩出山移封とともにこの地を離れたとされるが定かではない。尚、亀岡楯の北西の平地に西館と呼ばれる方形居館があり(現在は耕地整理で湮滅)、冬館とされる西館に対し、亀岡楯は夏館とも称される。

 亀岡楯は、文殊山から南西に張り出した稜線の先端部に当たる、標高330mの通称「館の山」に築かれている。稜線先端の平坦地に主郭を置き、堀切で背後の尾根を分断しつつニノ郭等の曲輪を連ねた簡素な構造である。主郭はほぼ全周を一段低い腰曲輪が取り巻き、特に尾根側は腰曲輪の幅が広く取られている。更にその外周に帯曲輪が2段ほど築かれ、武者走りを兼ねている。主郭の北西と南に段曲輪が数段築かれているが、これは登城道であろう。大手は北西尾根らしく、北麓には西来院跡地とされる平場群が広がっており、根古屋でもあったと思われる。その上の斜面にも帯曲輪が数段確認できる。一方、主郭背後には中規模の掘切が穿たれ、よく見ると堀底に岩石を削り残した畝のようなものが2本確認できる。丁度、韮山城砦群で見られたものと酷似しており、椿館の例に見られるように関東の小田原北条氏の築城技術が伝播していた可能性も考えられる。その後ろに小さなニノ郭があり、両側に腰曲輪が付随している。2本目の掘切は、両側の腰曲輪に繋がる竪堀状通路を連携させた変則的な二重堀切の様な形状になっている。ここには中央に土橋ならぬ石の橋らしいものが残る。解説板などでは掘切は3つとされるが、実際には尾根の鞍部に小さな4つ目の堀切もあった。亀岡楯は、簡素な縄張りから考えて、戦国期には物見程度の使用しかされていなかった様である。
主郭周囲の腰曲輪→IMG_2778.JPG
IMG_2833.JPG←2本目の掘切の石の橋
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.973771,140.186116&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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