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淀山城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_3914.JPG←ニノ郭の大堀切
 淀山城は、丹波の豪族波々伯部氏の居城である。「波々伯部」の名は、この地の部民が古代朝廷で亀卜に用いる「ハハカ(波波架)」の木を献上していたことから付いた名と言われる(ハハカの木は現在も波々伯部神社にあり、地元の方の話では極めて珍しい樹だとのことである)。この地に土着した一族が波々伯部氏を称したが、一説には八幡太郎源義家の裔の房光が篠山に入部したことに始まるとも言う。鎌倉末期~南北朝期には次郎左衛門為光が足利尊氏に仕えて活躍した。『太平記』には、丹波での戦いの中で諸豪族に混じって波々伯部の名が頻繁に現れている。明徳の乱の際も光豊・光基らが活躍した。また一族の光尚は南山城を、基継は垣屋城を、光興は東山城を築いて、一族繁栄して屈指の土豪に成長した。その後、丹波守護の山名氏や細川氏の被官となり、後に八上城主波多野氏が強大化すると、その重臣となった。戦国後期に織田信長の部将明智光秀が丹波に侵攻すると、波々伯部光吉は落城前に帰農した。その子光広は酒屋を開業して、大いに繁盛したと言う。

 淀山城は、国道372号線の北に位置する標高302m、比高52mの丘陵上に築かれた城である。丘陵頂部に当たる南に主郭を置き、その周囲に腰曲輪を設け、主郭の北に横堀状の腰曲輪を挟んでニノ郭、更にその北に大堀切を介して外郭を配している。比高の低い山であるため、要害性の不足を補うために、主郭・二ノ郭とも大きな高低差を持った大切岸で囲まれており、近づくものを寄せ付けない。これらの更に外周にも腰曲輪が築かれ、土塁や独立堡塁、横堀・竪堀などを効果的に組み合わせた、中々技巧的な縄張りとなっている。特にニノ郭の東側には短い横堀の両側から竪堀が落ちており、特に南側のものは麓まで伸びる長い竪堀で、それを挟むように腰曲輪まで付随している。構造から考えると、この竪堀は城内通路を兼ねていたと考えられる。また東側山麓の2ヶ所に平場があり、井戸跡が残っている。波々伯部氏の勢威がよく感じられる、良好な遺構である。
ニノ郭東側の横堀・竪堀→IMG_4014.JPG
IMG_3932.JPG←西側腰曲輪の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.071927,135.309623&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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