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八上城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4206.JPG←本丸背後の石垣
 八上城は、明智光秀の丹波平定に最後まで頑強に抵抗した丹波の戦国大名、波多野氏の居城である。波多野氏の出自は明確ではないが、相模の豪族波多野氏の後裔とも言われ、石見から丹波に入部して吉見姓を名乗っていたが、清秀の時に管領細川勝元に仕えて主命によって母方の姓波多野氏を名乗り、応仁の乱で大功を挙げて、多紀郡を与えられたと伝えられている。当初は高城山南西の尾根先端部に奥谷城を築いて居城とし、奥谷に城下町を形成した。その後も丹波守護を兼帯した管領細川家(いわゆる京兆家)に属したが、細川政元の暗殺後に後継を巡って細川家は内訌を繰り返し、その中で清秀の子元清は細川高国に属して周辺の荘園を蚕食し、多紀郡内を制圧した。西丹波の有力者に成長した元清は、新たな支配拠点として八上城を築いた。また元清の弟元盛は京兆家内衆の名門香西氏の名跡を継ぎ、末弟の賢治は大和国衆の柳本氏を継ぎ、妹は播磨の名門別所氏に嫁ぐなど、勢力を大きく伸ばした。元清は、将軍足型義稙から偏諱を受けて稙通と改名し、幕府の評定衆に列した。1526年、細川高国は細川尹賢の讒言を信じて、近臣の香西元盛を誅殺し、怒った稙通(元清)は弟の賢治とともに高国の政敵細川晴元に通じて高国から離反して、稙通は八上城に、賢治は神尾山城に拠って挙兵した。高国を破って京都から追い落とした稙通は、三好元長と共に晴元を支える有力者となった。波多野氏の勢力が強大化すると共に丹波守護代で八木城主の内藤氏との対立が激しくなり、1538年に稙通は三好政長と共に八木城を攻め落として内藤国貞を没落させた。天文年間(1532~55年)の末になると、波多野氏は細川晴元と対立した三好長慶と敵対するようになり、三好勢に八上城を度々攻撃され、1557年に長慶の部将松永久秀によって落城した。長慶は、松永孫六を八上城主としたが、1566年に波多野秀治は八上城の奪還に成功し、旧領を回復した。1568年、足利義昭を奉じた織田信長が上洛して義昭を将軍の座に据えると、秀治は黒井城主赤井直正と共に信長に降った。しかし将軍義昭と信長の間が険悪になると、赤井直正は信長から離反し、1575年、信長は明智光秀に丹波平定を命じた。光秀は、西丹波深くまで進撃して直正を黒井城に囲んだが、光秀に属していた秀治は突如裏切って光秀軍を背後から急襲し、光秀は大敗を喫して京に逃れた。その後再び光秀の丹波平定戦が始まり、八上城は1578年から明智方の大軍に完全包囲され、1年に渡る籠城戦の末に落城降伏した。秀治ら波多野3兄弟は、神尾山城を経由して安土城に護送され、磔にされて波多野氏は滅亡した。その後、丹波を平定した光秀は、並河飛騨守を八上城代とした。光秀滅亡後の豊臣政権期には亀山城主となった前田玄以の属城となった。1608年に松平康重が八上城に移封となったが、徳川家康の命で新たに篠山城を築城し、その完成と共に八上城は廃城となった。

 八上城は、篠山盆地の東南東に位置する標高462m、比高242mの高城山に築かれている。丹波三強と呼ばれた波多野氏の居城であり、丹波の三大城郭の一つに数えられるだけあって、かなり広範囲に曲輪が散在し、広大な城域を有している。主城部を主峰に置き、そこから派生する北西・東・南東・南の尾根に、外郭を配置している。主城は石垣を有した本丸と、その周りを囲むニノ丸・岡田丸の他、三ノ丸、右衛門丸を初めとする曲輪群を大手に当たる北西側に集中的に展開している。更に大手筋に沿って、下から順に「鴻の巣」「下の茶屋丸」「中の壇」「上の茶屋丸」が築かれているが、それぞれは基本的には尾根上の小平場で、あくまで番所的な位置付けの様である。一方、主城の南東部の谷戸に朝路池という大井戸を有した広い平場と、それを挟む両翼の尾根に蔵屋敷・池東番所と池西番所があり、更にその先の尾根にも段曲輪群が築かれている。蔵屋敷から東に伸びる尾根には、「はりつけ松」「茶屋の壇」「馬駈場」「芥丸」「西蔵丸」が点在している。これらの外郭が広範囲に広がる一方、掘切は比較的少ない城で、規模の大きなものは池東番所と池西番所のもの、それ以外は規模が小さなもので、右衛門丸の先の曲輪群等にいくつか見られる程度である。掘切よりも防御構造として重視されているのは動線制約の竪堀の様で、北西と東の尾根道に数ヶ所築かれている。特に東尾根では茶屋の壇などの平場の前面に竪堀を穿って尾根を土橋状にして、効果的に動線を制約している箇所が全部で4ヶ所確認できる。石垣は本丸後部と右衛門丸横の虎口部のみに低いものが築かれ、土塁も蔵屋敷と池東番所にだけ確認できる。尚、北西尾根の山麓には、主膳屋敷という居館跡の平場が広がり、高さ10m程の大切岸で上段の御殿屋敷と2つの平場に分かれ、この切岸に残存石垣が見られる。そしてこの居館付近の大手筋にも曲輪群が確認できる。以上が八上城の遺構であるが、更に出城として奥谷城と、奥谷の城下町を挟んで西の山稜上に法光寺城を築いている。しかし八上城は、石垣がある以外は天守台も築かれておらず、虎口などもそれほど技巧性は感じられない古い形態の縄張りを引きずっており、強勢を誇った波多野氏の本拠にしては少々見栄えしない城である。但し、石垣については、篠山城築城の際に石材が転用されている可能性もあり、往時はもっと立派な石垣であったかもしれない。

 尚、八上城は国指定史跡であり、登山道が整備されているので迷うこと無く登ることができるが、山道は傾斜がきつい上、整備された丸太の段の一段一段の段差が大きく、登るのに非常に疲れる。比高250mに満たない、丹波では決して高くない山城であるが、体力消耗度は大きい。
池西番所の曲輪群→IMG_4277.JPG
IMG_4298.JPG←尾根筋を防御する竪堀
主膳屋敷の残存石垣→IMG_4082.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.061723,135.2557&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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