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般若寺城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4701.JPG←堀切状の虎口
 般若寺城は、八上城攻めの際に明智光秀が本陣を置いた陣城である。織田信長より丹波攻略を命じられた明智光秀は、1575年2月、老ノ坂を越えて丹波に入った。丹波は、古より京の背後を扼し、山陰・山陽に繋がる街道を押さえる要衝で、京の安定的な確保と来るべき中国の毛利攻めには無くてはならない土地であった。光秀は、内藤忠行に亀山城で迎えられ、赤井直正の黒井城攻めを進めるが、八上城主波多野秀治の策略によって大敗を喫し、居城の近江坂本城まで総退却した。この時亀山城も波多野氏の手に落ちた。その後、2年程の間、亀山城を巡って一進一退が繰り返され、また光秀自身も各地の戦いに転戦しており、1577年に本格的な丹波攻略を再開し、ようやく亀山城を確保して丹波攻略の拠点とした。その後1578年、光秀は赤井氏の拠る黒井城と波多野氏の拠る八上城の中間地点に金山城を築いて両者の連携を断つと共に、八上城を完全包囲して兵糧攻めにした。この時に本陣としたのが般若寺城である。この籠城戦の最中も光秀は、毛利攻めを行う羽柴秀吉への援軍に赴いたり、信長に反旗を翻した荒木村重を討伐するため有岡城攻めに参陣したりと、転戦を続けた。そして1年3ヶ月にわたって籠城戦を続けた波多野秀治も、1579年6月、遂に兵糧尽きて降伏した。その後、8月には黒井城も落とし、光秀は5年の歳月を掛けてようやく丹波攻略を成し遂げた。信長はその功績を絶賛して、光秀に丹波一国を与えた。本能寺の変の、3年前のことであった。

 般若寺城は、八上城から篠山川を挟んで対岸の北に位置する比高50m程の独立小丘陵に築かれている。現在正覚寺が建てられているこの山の麓の地には、元々波多野秀治が建立した般若寺があり、光秀は寺の本堂に本営を置き、背後の山上に城砦を築いた。この山上へは南東麓から小道が付いており、登るのは容易であるが、山上は激しい藪に覆われている。それでも、頂部の曲輪や切岸、腰曲輪、掘切を兼ねたと思われる虎口などが確認できる。東西にそれぞれ東郭・西郭を置き、その中間部に一段低い窪地の曲輪で連結した構造で、腰曲輪は基本的に八上城のある南面に集中している様である。曲輪群は明確であるが、如何せん薮で遺構の確認が大変な上、遺構自体も左程特筆するようなものではない。しかし光秀の本陣が置かれた場所でもあり、歴史的な重要性に鑑みれば訪れておきたい城砦ではある。
東郭の切岸→IMG_4680.JPG
IMG_4703.JPG←腰曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.076282,135.264884&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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