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八百里城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4819.JPG←大堀切
 八百里城は、丹波の戦国大名波多野氏の家臣畑氏の居城である。その創築は明確ではないが、南北朝時代の築城と考えられている。畑氏以前には、丹波守護細川満元の弟、満国・持春父子がこの城の城主となって畑荘を領していた。満国・持春はその名が示す通り、室町幕府将軍足利義満・義持の偏諱を受けたもので、また後に下野守を称したことから野州家と称され、三管領家の一、細川宗家(京兆家)を支える有力支族として活躍した。一方、戦国時代にこの城の城主となった畑氏は、新田義貞の重臣で剛勇で聞こえた新田四天王の一人、畑六郎左衛門時能の後裔とされる。1341年、越前で時能が足利一門の越前守護斯波高経の軍勢と激戦の末に戦死すると、その遺児六郎時速は母に連れられて丹波にいた新田一族の江田行義を頼って落ち延び、成長したのちは江田氏に属して丹波畑氏の祖となったと伝えられている。明徳の乱の後、管領細川氏が丹波守護を兼帯すると、畑氏は細川氏に属した。1507年に幕府の実権を握っていた細川政元が家臣に暗殺され、家中の内訌によって細川氏の勢力が減退すると、八上城主波多野氏が西丹波で台頭し、畑宗右衛門忠綱は波多野氏に従った。天正年間(1573~92年)に明智光秀が織田信長の命で丹波に侵攻すると、畑牛之允守能は波多野秀治と共に抗戦し、1579年5月に八百里城は明智勢によって落城した。この時、守能の長男守国・次男能国は討死し、守能は落ち延びて摂津の永沢寺に入って仏門に入り、後に高野山で余生を送ったと言う。

 八百里城は、標高442m、比高212mの八百里山に築かれている。南東麓の寺の脇から山道がついているが、途中で斜面に沿って登っている害獣除けの柵にぶつかるので、柵に沿って斜面を直登することになる。南の尾根に辿り着くと、南側には尾根先端の物見台に当たる3段程の曲輪群がある。ちなみに私はここで、はぐれ猿と遭遇した。従って、この山では野生動物との遭遇は覚悟しておいた方が良い。一方、柵の北側の尾根には二重堀切が穿たれている。深さは1m程度で小規模である。二重掘切の先は削平がやや甘いが、曲輪となっている。その付け根には東側に竪堀が穿たれ、かなり長く下まで伸びている。ここから尾根筋を登って行くと、朽ちかけた小さな社殿の建つ平場がある。ここも曲輪だったらしく、この近くの登道には、動線制約の竪堀が東側に穿たれている。この曲輪には、八百里1号墳があって、石室がむき出しになっている。更に上ると数段の大手の段曲輪群を経由して主城域に入るが、その手前の尾根にも両側に竪堀が穿たれて、大手道から斜面への移動を制約している。主城部も基本的には単純な連郭式の段曲輪だけで構成された縄張りで、古い形態をそのまま残している様である。中央の最高所に主郭が置かれ、主郭にだけ虎口部や北辺に土塁が築かれ、後方に櫓台を備えた厳重な構造となっている。主郭背後に2段の段曲輪があり、その先は深さ5~6mの大堀切となっている。その先も出曲輪があって、先端に片掘切があって城域が終わっている。また主郭の南側斜面だけ、腰曲輪が築かれている。日本城郭大系によれば、ニノ郭の南側を降っていくと、2段程の曲輪が築かれているようだが、藪がひどく踏査は断念した。八百里城は、守護の細川氏一族が関連した城にしては、大規模な普請というほどではなく、戦国後期まで存続した城としても、大堀切以外には特筆すべき遺構は少ない。城域はそれなりの範囲に広がっているが、少々面白みに欠ける城であり、山頂まで踏跡は付いているが全体に藪が多いのも難である。
 尚、畑氏の平時の居館は大渕館であったと言われている。
二重掘切→IMG_4724.JPG
IMG_4841.JPG←主郭の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.096035,135.248748&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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