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金山城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_4998.JPG←主郭周囲の石垣
 金山城は、明智光秀が丹波平定のために築いた城である。織田信長の命によって1575年に開始された光秀の丹波平定は、丹波に割拠する豪族たちの激しい抵抗に遭った。特に黒井城主赤井直正と八上城主波多野秀治の抵抗は激しく、一方攻める光秀も、黒井城攻めの際に裏切った秀治の策略によって背後を襲撃されて命からがら近江坂本城まで敗走した後は、各地の戦いに駆り出されて転戦するなど、当初平定事業は遅々として進まなかった。しかし1578年2月、三木城主別所長治が信長から離反すると、篠山盆地一帯を支配していた波多野秀治は、別所氏に通じて丹波国人衆と共に一斉蜂起した。そこで信長は、再び光秀に丹波平定を命じ、光秀は軍勢を率いて同年3月に丹波へ再侵攻した。光秀はまず八上城に狙いを定め、周囲に城砦群を築いて完全包囲して八上城を兵糧攻めとした。しかし秀治は、黒井城の赤井氏と連携して八上城を拠点に徹底抗戦した為、両者の連携を恐れた光秀は、八上城と黒井城の連携を分断する為、両城の中間に位置し、交通の要衝であったこの地に金山城を築いた。城番には矢島式部・加上弥右衛門・朽木久兵衛が置かれたと言う。そして1年3ヶ月の長期包囲戦の末、1579年6月八上城は遂に落城し、波多野氏は滅亡した。同年8月には黒井城も攻略して、光秀は丹波平定を完了した。しかし『兼見卿記』によれば、同年10月に至っても金山城はまだ普請が続いていたらしい。平定を終えたものの、波多野氏や赤井氏の残党の蜂起を恐れていたのかもしれない。しかし翌年には廃城となったと推測されている。

 金山城は、標高540m、比高290mの金山に築かれた、峻険な山城である。ハイキングコースが整備されているので、迷うこと無く登ることができる。岩盤の露出した岩山である金山の東西に伸びる尾根に主要な曲輪を配し、更に南に伸びる支尾根に出曲輪を築いている。主郭は主尾根の中央に位置し、周囲に帯曲輪を伴っているが、それほどの広さは有していない。主郭の北西と南東に虎口が築かれているが、北西側のみ側方に石垣がわずかに残っている。また主郭の西端部はやや高くなり、西面から南面にかけて石垣が残っていることから、天守台であった可能性もある。主郭の東にはニノ郭に相当する東郭があり、虎口を有し、その東側下方に2段程の腰曲輪を有している。一方、主郭の西側には西郭があり、ここには有名な「鬼の架け橋」という巨石がある。東郭も西郭も、曲輪内は岩石がゴロゴロしており、あまりまとまった広さはなく居住性は殆どなかっただろう。一方、西郭から南出曲輪に通じる城道の途中には小さな段曲輪がある。南出曲輪は、幅広の尾根を削平して馬場としており、その先に土塁と虎口、腰曲輪を築き、その下に広い曲輪を築いている。ここには後世、園林寺と言う寺が建立され、今でもその跡が残っている。金山城は、支配拠点として築かれた周山城などと比べればその違いは一目瞭然で、役割は番城だったものだろう。石垣はあるが、範囲は狭く、崩落も進んでいるようなので、遺構面では少々見劣りする。
石垣の残る主郭虎口→IMG_5009.JPG
IMG_5016.JPG←天守台の様な主郭の高台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.114029,135.113994&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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