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黒井城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5359.JPG←本丸から見た二の丸
 黒井城は、丹波随一の勇将で「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井右衛門尉直正の居城である。元々は、南北朝期の建武年間(1334~38年)に、赤松円心の次男貞範が伊豆竹之下合戦の軍功により、足利尊氏から丹波春日部荘を賜って黒井城を築いたと言われている。ちなみに貞範の墓が黒井城に程近い白毫寺にあることから、晩年の貞範は春日部荘を本拠としていた様だ。その後、赤松氏の勢力が衰退する一方、国人領主の赤井氏が勢力を広げて氷上郡を支配するようになると、黒井城は赤井氏の持ち城となり、その庶流の荻野氏が城主となった。黒井城の城主として記録に残っているのは、室町末期の荻野和泉守とその子と思われる伊予守秋清以降である。この秋清を倒して黒井城主となったのが、赤井直正である。天文年間(1532~55年)に朝日城の荻野氏は、赤井時家の次男才丸を養子として迎えた。これが後の直正である。直正は朝日城を居城としていたが、1554年に叔父の秋清を宴席で刺殺し、そのまま黒井城を乗っ取って居城を移した。この直正の時代に黒井城は大規模な改修を受けた。1557年、後屋城主の兄赤井家清が没すると、直正が赤井・荻野一族の事実上の統帥者となった。1565年、赤井一族は丹波守護代の八木城主内藤宗勝(実は松永久秀の実弟)と和久郷合戦で戦い、大勝した。こうして直正は丹波西方に武威を振るい、自身を「悪右衛門」を称して(中世の「悪」は「強い」の意味)全国にその名を轟かせた。1571年に但馬守護山名祐豊が氷上郡に侵攻すると、直正は逆に山名氏の本城此隅山城竹田城を攻め落としたと言われる。直正は、当初将軍足利義昭を奉じて上洛した織田信長に臣従したが、信長が義昭と対立するようになると信長から離反した。1575年、信長は明智光秀に丹波攻略を命じ、光秀は丹波の強豪八上城主波多野秀治を味方につけて、大軍で黒井城を包囲した。しかし籠城開始から2ヶ月以上経った頃、波多野秀治は突如裏切って背後から明智勢を急襲し、それと呼応した赤井勢によって光秀は大敗、命からがら近江坂本城まで逃げ帰った。その後光秀は各地の戦いに転戦した為、丹波攻略は進まなかったが、1578年2月、三木城主別所長治が信長から離反すると、篠山盆地一帯を支配していた波多野秀治は、別所氏に通じて丹波国人衆と共に一斉蜂起した。そこで信長は、再び光秀に丹波平定を命じ、光秀は軍勢を率いて同年3月に丹波へ再侵攻した。光秀はまず八上城に狙いを定め、周囲に城砦群を築いて完全包囲して八上城を兵糧攻めとした。しかし秀治は、黒井城の赤井氏と連携して八上城を拠点に徹底抗戦した為、両者の連携を恐れた光秀は、八上城と黒井城の連携を分断する為、両城の中間に金山城を築いた。1年3ヶ月の長期包囲戦の末、1579年6月八上城は遂に落城し、波多野氏は滅亡した。八上城を抜いた明智勢は孤立無援となった黒井城を囲んだ。前年3月に直正を喪っていた赤井勢は、直正の弟刑部幸家が直正の子直義を後見して明智勢と対峙したが、衆寡敵せず同年8月には黒井城も攻略され、光秀は丹波平定を完了した。光秀には信長より丹波一国が与えられ、黒井城には光秀の重臣斉藤利三が配置された。1582年、本能寺の変の後、山崎合戦で光秀も利三も敗れて滅亡し、その後は羽柴秀吉の家臣堀尾吉晴が黒井城主となった。1585年に吉晴が近江佐和山城に転封となると黒井城は廃城となった。

 黒井城は、標高356.8m、比高257mの城山山上に築かれた城である。丹波三強と呼ばれた赤井氏の居城であり、八木城・八上城と共に丹波の三大城郭と並び称されるが、黒井城は3城の中で最も優れた縄張りと遺構を有している。山頂部の主城部は、本丸・二の丸・三の丸・東曲輪が連郭式に配置され、更に本丸・二の丸の外周には腰曲輪が廻らされており、この点は八上城と似た構造となっている。しかしこれらの主要な曲輪の周りには、八上城をはるかに上回る石垣群が築かれており、高さもあり、算木積みの技法まで確認できる。また本丸と二の丸に築かれた枡形虎口も明瞭で、より進んだ築城技術が投入されている。これらはもしかすると、丹波平定後に光秀の家臣斎藤利三が改修を加えたものであろうか。これらの主城部以外に、北の丸・東出丸・石踏の段・三段曲輪などの曲輪群が主城からやや離れて分散配置されている。この中では東出丸には土塁の囲郭があり、その先端部は前面に堀切を伴った櫓門となってそびえている。三段曲輪については、曲輪があるのはわかるが見た限り三段ではなく、どこのことを指しているのかよくわからなかった。ちなみにこの曲輪群は奥に掘切を伴っている。この他、石踏の段の奥に腰曲輪群が薮に隠れ、更にゆるやかコースという道を降っていくと、途中には山腹を降る竪堀が2本穿たれているのが確認できる。

 黒井城は、こうした本城の遺構以外に、城山から派生する尾根の広範囲に砦群が築かれているが、これらを全て踏査するには丸1日掛かるだろう。いずれにしても勇将赤井直正の名に恥じない、立派な城である。
東曲輪と三の丸の石垣→IMG_5303.JPG
IMG_5314.JPG←三の丸南面の石垣
東出丸の櫓門の虎口→IMG_5490.JPG
IMG_5509.JPG←山腹に穿たれた竪堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.179245,135.104059&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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