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古河公方館(茨城県古河市) [古城めぐり(茨城)]

DSC02346.JPG←主郭の土塁と掘切跡
(2007年1月訪城)
 古河公方館は、鴻巣御所とも呼ばれ、古河公方足利成氏の居館である。室町後期の1454年12月、鎌倉公方足利成氏が対立する関東管領上杉憲忠を誅殺して、関東全域を巻き込む「享徳の大乱」が勃発した。翌55年、上杉派討伐のため出陣中であった成氏は、その留守中に室町幕府の命で派遣された駿河守護今川範忠に鎌倉を奪われ、自派の小山氏や結城氏らの本拠に近い古河に奔って、居館を造営して本拠とした。これ以降を古河公方と称し、この時造営されたのが古河公方館である。しかしその後の1457年、成氏はより要害性の高い古河城を築いて本拠を移した。以後の古河公方館がどうなっていたかは明確ではないが、別館として維持されてきたものだろう。1590年に小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、1582年に病没していた5代古河公方足利義氏(北条氏康の甥に当たる)の息女氏女(うじひめ)を古河城から立ち退かせて鴻巣御所に移した。そして古河公方家が断絶していたことを惜しんで、小弓御所足利義明の孫国朝を氏女と結婚させてその跡継ぎとし、下野国喜連川を与えた。国朝は1593年に死去し、氏女は国朝の弟頼氏と再婚した。この間、氏女は一貫して鴻巣御所を居所とし、1620年にこの地で亡くなった。その子義親と孫の尊信も鴻巣御所に住み続け、尊信が1630年に喜連川に移るまで館は存続した。

 古河公方館は、「御所沼」という沼地に張り出した半島状の台地に築かれた城館である。現在、古河総合公園の一部となっており、散策路が整備されている。現在は先端部の曲輪だけが往時の姿を留め、東側は公園化や宅地化で改変され、周囲の沼地もかなり小さくなっているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、もっと広い沼地に張り出した細長い台地で、かなりの要害であったことが推察される。御所とは言うものの、西端から順に主郭・ニノ郭・外郭を連郭式に配した、十分に城と呼べる様な城館であった様である。遺構としては主郭東側の土塁と掘切がわずかに残っているだけであるが、主郭内に残る足利義氏の墓と共に戦国関東の歴史を伝える貴重な遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.176509,139.69981&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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