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高見城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5887.JPG←北尾根の曲輪
 高見城は、佐野城とも呼ばれ、南北朝期に丹波守護となった足利尊氏の家臣仁木頼章が築いた城である。仁木頼章の事績は、仁木頼章墓所の項に記載する。尊氏が建武の新政から離反し、幾多の戦いの末に京都を制圧して幕府を開くと、頼章は丹波守護に補任され、荻野朝忠を守護代とした。高見城はこの頃に築かれたと考えられる。1354年に足利直冬(実は尊氏の庶子)の挙兵に応じて山名時氏が京都に進撃した際には、途中丹波で頼章が籠もる高見城下を通り過ぎたが、頼章はその大軍を怖れてただ傍観するのみであったと言う(『太平記』)。しかしこれは、京都を一度直冬方に明け渡した後で、包囲殲滅する尊氏の戦略に沿ったものであるとの指摘もある(亀田俊和『観応の擾乱』)。その後時代は下って戦国時代になると、高見城は後屋城主赤井家清の持ち城となり、1579年に明智光秀の丹波平定戦で落城した。

 高見城は、標高485m、比高385mの高見城山に築かれている。山頂部に小さな主郭を置き、その北側に3段程の段曲輪群が築かれている。これが主城部で、南側の切岸にはわずかに石積み跡も見られるが、この他にも北東から北西にかけて派生する尾根上に曲輪群がかなり広範囲に存在するらしい。私は登山道が整備されている北東尾根と、城山から北に伸びる北尾根中腹までは踏査したが、段曲輪群が各尾根に散在するだけで、主城とも離れており求心性は乏しい縄張りである。また2つの尾根の中程には物見台が屹立し、北尾根のものは背後に小堀切を伴っている。この他、北東尾根の登山道脇には櫓台を備えた広めの段曲輪があり、薮でわかりにくいが側方に竪堀があるようだ。他の尾根などにも曲輪が残り、山麓には居館跡もあるようだが、時間の都合で未踏査である。亀井戸跡は解説板表示だけで、埋もれていて確認できない。いずれにしても、見た限りでは比較的ささやかな遺構で、戦国期にも大きな改変は受けていないように感じられた。

 尚、現地解説板に『嘉暦2年(1327)に仁木頼章が築いた』とあるのは誤り。少なくとも建武の新政以前に仁木頼章が丹波に居たことはあり得ないことを付記しておく。
登山道脇の北東尾根段曲輪群→IMG_5860.JPG
IMG_5880.JPG←北尾根の掘切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.1257,135.033184&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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