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仁木頼章墓所(兵庫県丹波市) [その他の史跡巡り]

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 仁木氏は足利一門で、元々は吉良氏・細川氏等の一門と同様に足利王国とも言うべき三河国を本拠としていた。仁木氏は一門中では家格が低く、ほとんど家来並みの扱いであったことが『吾妻鑑』の記述から知られる。それが一躍歴史の表舞台で活躍して丹波守護に補任されるまでになったのは、勿論尊氏の挙兵に従ったからである。仁木頼章・義長の兄弟は、丹波篠村での倒幕戦挙兵から観応の擾乱まで終始一貫して尊氏に従って奮戦した為、尊氏から重んぜられ、頼章は晩年の尊氏の執事まで務めている。頼章と丹波の繋がりは、1336年に京都争奪戦に敗れた尊氏が九州に逃れた際、室泊の軍議に基いて丹波一国の軍事指揮官として派遣されたことに始まる。この時頼章は、久下・中沢・荻野・波々伯部ら丹波国人衆を率いて高山寺城に立て籠もっている。この後、瞬く間に態勢を盛り返して再挙東上した尊氏が京都を制圧して幕府を開くと、頼章は丹波守護に補任され、荻野朝忠を守護代とした。しかし尊氏の傍にあって補佐し続けたことを考えれば、頼章自身はほとんど丹波に在府したことはなかっただろう。1343年に守護代の朝忠が突如高山寺城に立て籠もって室町幕府に反旗を翻して討伐されると、頼章は責任を取って丹波守護職を辞し、山名時氏が丹波守護となった。1350年、室町幕府を二分した抗争、観応の擾乱が生起して尊氏・直義兄弟が争うと、山名時氏は直義党の有力者として尊氏に抗して戦い、直義の死後にその養子直冬(実は尊氏の庶子)の挙兵に応じて時氏が京都に進撃した際には(1354年)、途中丹波で頼章が籠もる高見城下を通り過ぎたが、頼章はその大軍を怖れてただ傍観するのみであったと言う(『太平記』)。但しこれは、京都を一度直冬方に明け渡した後で、包囲殲滅する尊氏の戦略に沿ったものであるとの指摘もある(亀田俊和『観応の擾乱』)。直冬は一旦は京都を制圧したものの結局京都争奪戦に敗れて石見に逼塞し、時氏も本拠の山陰に退き引いた。その後は尊氏・義詮による幕政運営の中で、尊氏の執事となった頼章は重要な役割を果たした。頼章が1358年に病没した時、朝廷の公卿洞院公賢が日記『園太暦』の中で、頼章を「武家随分の重人」と評し、頼章の訃報に接して「武家政道いかん」と頼章亡き後の幕政に一抹の不安を持っていることからしても、頼章が執事として尊氏晩年の幕政に重きを成していたことが推し量られる。

 仁木頼章の墓所は、頼章が築いた高見城の東麓にある三宝寺の境内にある。板状の3つの墓と小さな五輪塔があり、どれが頼章の墓かはよくわからないし、その他の墓が仁木氏一族のものかも不明であるが、南北朝動乱を生き抜きた足利一門の武将の足跡がしっかりと伝わっていることに感慨を覚えずにはいられない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.129614,135.042604&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:墓所
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仁木

良いブログありがとうございます。丹波から四国へ移住した仁木一族の子孫です。このブログのおかげで2018年10月21日にお参り出来ました。娘が墓標を手でなぞり仁木の文字を確認出来ました。左端のお墓です。
住職さんはいないみたいで、仁木頼章の看板もなくなっていました。少し心配ですが、感動しました。ありがとうございます。
by 仁木 (2018-10-21 00:16) 

アテンザ23Z

>仁木さん
当ブログにご訪問頂きありがとうございます。
仁木氏の御子孫とは恐れ入ります。仁木氏は、南北朝期には兄弟で大変な活躍をして、多くの国の守護を兼帯していたのに、その後勢力が振るわなくなってしまったのは残念です。
それにしても遠いご先祖さまのお墓参りのお役に立てて、良かったです。もしご一族に伝わっているお話でもあれば、お聞かせいただけると幸いです。
今後ともご愛顧のほどよろしくお願いします。
by アテンザ23Z (2018-10-21 21:38) 

仁木

亡き父からは、戦国時代に三好家を頼って移住したと聞きました。仁木家の墓は数えきれない位の寄せ墓なのですが、三好長慶の生誕の地と言われる徳島県三好市三野町の山の奥にあります。家紋は足利二つ引きが彫ってあります。当時政権を握った三好氏に頼ったのは自然の流れなのでしょう。三好一族がしっかりしてれば、織田信長に負けなかったかも知れませんね。
by 仁木 (2018-10-22 21:13) 

アテンザ23Z

>仁木さん
貴重な情報ありがとうございます。
仁木氏の表立った足跡ははっきりしなくなりますが、足利将軍家に仕えた奉公衆か奉行衆の中に仁木氏の一族が居たような文献を見た記憶があります。そのようにして京都に残っていた一族が、三好氏の勢力拡大に伴って、四国に移住したのかもしれませんね。
by アテンザ23Z (2018-10-23 22:30) 

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