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母坪城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6392.JPG←竪堀
 母坪城は、穂壺城とも記載され、西丹波の戦国大名赤井氏の支城である。元々の創築は明確ではないが、後屋城の赤井一族が台頭するに連れて、その傘下に属したと考えられている。1533年には、細川晴元に属した赤沢景盛が城主で、晴元方から離反した八上城主波多野晴通に攻められ、善戦したものの落城し、景盛は討死した。その後、一時播磨へ難を避けていた赤井時家が復帰すると、母坪城にはその家臣稲継壱岐守が入った。1579年、明智光秀の丹波平定戦の際に明智勢の猛攻を受け、8月15日に落城したと言われている。この時笛の名手の壱岐守は、心静かに「松風」の一曲を吹き終えてから討死したと言う。

 母坪城は、高見城山から北に伸びた尾根の先端が、柏原川南岸に突き出た標高156.3mのピーク部に築かれている。山頂に主郭を配し、その前後に当たる南北に段曲輪群を連ねた直線連郭式の単純な縄張りとなっている。主郭北側には3段の段曲輪があり、その前面を二重掘切で分断し、更にその前方にも土塁を備えた曲輪群を築いている。一方、主郭背後には2段の段曲輪があり、2段目の先端には小さな櫓台が築かれて下方を睥睨している。その下方にも円弧状に腰曲輪が数段築かれている。この南西側下方にも曲輪らしい平場や堀状の通路が見られるが、後世の改変の可能性もあり、遺構かどうかは明確でない。この城で特徴的なのは、竪堀の効果的な使用による動線制約効果で、前述の円弧状腰曲輪には南西と南東に各2条ずつの竪堀が放射状に穿たれている。これらの竪堀は、下方の腰曲輪への城道としても機能した様である。また主郭前方の曲輪群でも、城道の側方に動線制約の竪堀が穿たれている。全体としての技巧性には乏しいが、竪堀の活用が目を引く城である。
主郭後部の曲輪群→IMG_6365.JPG
IMG_6451.JPG←前方曲輪群の掘切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.150582,135.040201&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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