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小川城(茨城県小美玉市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7816.JPG←小学校北側の掘切跡
(2015年7月訪城)
 小川城は、薗部城とも呼ばれ、戦国時代に小田氏の家臣薗部氏の城であった。元々の創築は、建久年間(1190~99年)に下河辺政平によるとされる。政平の父政義は、源頼朝に従って軍功を挙げ、志筑城を築いた。そして次男の政平を小川郷に分封し、政平の系統が小川氏を称して朝平・義忠・義広と続いて小川城を居城とした。時代は下って戦国時代の1528年、小田城主小田政治は大掾氏の勢力拡張を抑える為に、家臣の薗部兼泰を小川城主として派遣した。しかし兼泰の子兼彦は、大掾慶幹に娘を嫁がせて大掾氏と通じた為、政治は怒って小川城を攻め、兼彦を逐い落とした。そして政治は、弟の左衛門尉を小川城主としたが、1546年に江戸氏の支援を得た兼彦が城を奪還した。1571年、小田氏治が小川城を攻め、兼彦は敗れて結城氏の元に逃れた。3代兼基は1588年に佐竹義宣に攻められて行方不明となり、その後は佐竹氏の家臣茂木筑後守治良が小川城主となった。1602年、佐竹氏が出羽秋田に移封となると、代わって出羽より戸沢政盛が小川城主に入ったが、戸沢氏が龍子山城(松岡城)に移ると、小川城は水戸藩領となり城は廃された。しかしその後も藩の運漕奉行所・稽医館・小川郷校などが城址に置かれて使用され続けた。

 小川城は、園部川東岸の比高20m程の台地先端部に築かれた城である。現在城内は小川小学校などに変貌しており、市街化による改変で明確な遺構は少ない。しかしともかくも段丘上に築かれた地勢は健在で、現在でも小川の町を見下ろす様にそびえている。小学校の西側や北側の切通し状の車道は、明らかに往時の掘切跡であろう。その他、西側や東側に腰曲輪跡らしい段も見られる。いずれにしても、かなり改変が進んでいるのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.171521,140.35723&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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