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志田楯(山形県高畠町) [古城めぐり(山形)]

IMG_9574.JPG←南郭群の石垣
 志田楯は、14世紀の末頃の長井氏領時代に志田義治の居城であったと伝えられている。古くは新宿の柵と称したと言われ、後に志田義治の時代を経て、文禄年間(1592~96年)には遠藤盛利が居城としたとされる(但し、1553年の『晴宗公采地下賜録』によれば、中野常陸介ら5名の地頭領主が新宿郷に安堵されているが、遠藤氏の名は見えない。)。1598年に豊臣秀吉の命で上杉景勝が会津・置賜に入部すると、盛利は伊達氏を離れて上杉氏の執政直江兼続の家臣となり、慶長出羽合戦の時には足軽300人を率いて二井宿口から上山に出陣した。しかし、慶長年間(1596~1615年)の末年に再び伊達家に仕えたと言う。

 志田楯は、屋代川の曲流部に張り出した標高380m、比高100mの山上に築かれている。山頂に南北に長く伸びた主郭を置き、北東と南東の尾根に段曲輪群を配している(北郭群・南郭群)。主郭は西辺に土塁を築いて防御し、南端近くは一段低くなっている。また南西部にも一段低くなった、細長い変則型の枡形虎口の小郭を築いている。その下の南西尾根十数m下方にも、縄張図にない馬蹄段曲輪がある。前述の北郭群・南郭群は、どの曲輪も削平がしっかりとしており見応えがある。特に南郭群の最上段には石垣が残っている。これは予想外に立派な石垣で、わずかな残欠に過ぎないが積まれた石が大きくしっかりと積まれており、東北の山城では類例が少ない。しかし隅部の処理は算木積みにはなっておらず、戦国末期から近世初期頃の構築と思われるが、上方の石積み技術がまだ流入する前に構築されたものの様である。この他、主郭の北西にも段曲輪が1段あって、堀切が穿たれている。その先も削平の甘い曲輪が続き、掘切がもう2本穿たれているが、最初の掘切だけしっかりした規模で竪堀も長く伸びるが、残り2本は小さいものである。また北郭群・南郭群の東面に帯曲輪があり、北郭群と南郭群を繋いでいる。この帯曲輪から谷戸を降ると川沿いに平場が広がっており、倉庫などが置かれたと思われる。

 志田楯は、現在でも外周を廻る屋代川が天然の外堀となり、渡る橋もないので、人の接近を阻んでいる。昨年来た時には川に阻まれた上、猿が出現しており、猟銃の音も山中に響いていて、近くの商店のおばさんに登るのはやめた方がいいと言われて断念した経緯があった。今回は、11月の猟解禁前で、且つ晩秋の渇水期を狙ったのが頭に当たり、長靴を用意したのもあって難なく渡河して登ることができた。山形で訪城目標としていた最後の城であったが、貴重な石垣に大喜びすることができた。
主郭北西尾根の掘切→IMG_9544.JPG
IMG_9586.JPG←南郭群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.018598,140.252666&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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