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岩切城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_0200.JPG←三ノ郭から見た主郭方面
 岩切城は、奥州の豪族留守氏歴代の居城であり、また南北朝時代に合戦の舞台となった城である。留守氏は、奥州合戦後に源頼朝から陸奥国留守職に任命された伊沢左近将監家景を祖としている。伊沢氏は、2代家元以降は職名を名字とし、留守氏を称した。そしていつの頃からか、多賀国府に近い高森山に岩切城を築いて居城としたと言われている。鎌倉中期には留守職は形骸化し、留守氏は地方豪族として発展していった。南北朝時代には、多賀城に陸奥国司・鎮守府大将軍として北畠顕家が派遣され、留守氏は顕家率いる南朝方に属して戦ったが、後には足利氏の北朝方に転じた。足利幕府は、1346年に奥州管領として吉良貞家・畠山国氏の2人を派遣したが、足利尊氏・直義兄弟が争う「観応の擾乱」が起きると、その余波で直義党の吉良氏と尊氏党の畠山氏が対立した。留守氏は宮城氏と共に畠山氏に付き、1351年、畠山高国・国氏父子と留守氏・宮城氏は岩切城に立て籠もったが、吉良貞家に攻められて落城し、畠山父子は討死した。留守氏も一族の多くが討たれて没落した。後に吉良・畠山・石塔・斯波の4家が並立する四管領時代を経て、斯波氏=大崎氏が奥州管領を世襲するようになると、留守氏は大崎氏に属してその勢力を利用して自己の勢力の回復を図った。しかし伊達氏の勢力が北上してくると、留守氏は大崎・伊達両氏に挟まれて、留守氏内部は両派に分裂して抗争を繰り返した。最後は伊達派が勝利を収め、伊達氏に属してその入嗣も受け入れるようになった。こうして留守氏は、伊達氏の後ろ盾で勢力を回復していくが、伊達晴宗の3男政景の入嗣の際は、重臣の村岡氏らの反発が大きく、政景は村岡氏を攻め滅ぼして家中統一を図った。そして村岡氏滅亡からまもなくの元亀年間(1570~73年)に、居城を岩切城から利府城に移し、岩切城は廃城となった。留守政景は、伊達氏当主となった若き政宗を補佐し、度々の合戦で活躍し、政宗の信頼が厚かった。豊臣秀吉の奥州仕置で政景は所領を没収されたが、伊達氏の家臣と見做されて政宗の下で活動し、後に伊達一門に列せられて、その子孫は水沢伊達氏となって幕末まで存続した。

 岩切城は、標高105.6m、比高96mの高森山に築かれている。主峰から派生する尾根筋に段曲輪群を連ねた、古風な造りの典型的な山城であるが、城域は広大である。城域は大きく東西2つに分かれ、西側が主城部、東側が東郭群となる。主城部は、山頂に主郭を置き、南東に伸びる尾根にニノ郭・三ノ郭を連ねている。主郭背後は掘切を介して西郭があり、更にその南北に派生する尾根と主郭北側の尾根に曲輪群を連ねている。要所を堀切で分断しているが、それほど規模の大きなものではない。東郭群は、主城から細尾根に穿たれた2つの掘切を介して東の緩斜面に広がっている。ここはかなりの居住性を有していたと思われる。こちらも北・北東・東・南の四方に伸びる尾根に段曲輪群を築いている。東郭群は掘切が少ない一方で、東尾根に枡形虎口が形成されており、主城部と比べるとより後の時代に構築された様に感じられる。岩切城は、国指定史跡であるので、主要な部分は整備されているが、城域が広大なため、派生する尾根の段曲輪群はあまり整備の手が及んでおらず薮の部分も多い。東日本大震災で切岸が崩れるなど、岩切城も大きな被害を受けた様だが、現在では立派に復旧されている。
東郭群との間の掘切・土橋→IMG_0211.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=38.313882,140.939763&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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