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津谷楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1888.JPG←巨大な三重横堀の一つ
 津谷楯(津谷館)は、獅子ヶ楯(館)とも言い、津谷村の豪族米倉氏の居城と伝えられている。米倉氏の出自については諸説あり、『峰仙寺縁起』や『米倉系譜』によれば、南北朝時代に葛西氏家臣の薄衣内匠亮清村が米倉氏を名乗り、1326年に津谷村に移館し、その後、次男の米倉玄蕃持村が津谷・平磯・岩尻三村を所領して、1372年に津谷楯に居したと言う。また城主の名は米倉左近将監とも伝えられる。いずれにしても、葛西氏の家臣としてこの地に勢威を振るい、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易になると没落した。その後の葛西大崎一揆に加わった武将の中に米倉右近行友の名が見え、結局は蒲生氏郷の奥州仕置軍に敗れて滅亡したと考えられる。

 津谷楯は、舘岡と呼ばれる比高40m程のなだらかな丘陵上に築かれている。頂部の主郭は公園化されて忠魂碑が建ち、その下の一段低いニノ郭には福祉センターが建っていて、城の主要部はかなり改変を受けている。福祉センターの南側にも民家や畑の平場が見られ、腰曲輪だったものと考えられる。この城で特徴的なのは、西側斜面に穿たれた大規模な三重横堀で、最大で深さ8m程もある。北側では内側の2本が合流して1本となっており、二重堀切となって背後の丘陵基部との間を遮断している。三重横堀の南側には、大竪堀が穿たれて、横堀先端を断ち切っている。竪堀の南側にも二重横堀が穿たれ、その先にも竪堀が落ちている。2本目の竪堀の先も横堀1本が伸び、前述の腰曲輪付近まで来ているが、その先は埋められて改変されている様だ。一方、昭和20年代前半の航空写真を見ると、横堀は主郭背後を円弧を描いて東側まで伸びているらしく、東側の山林にも遺構が眠っている可能性があるが、未確認である。いずれにしても、堀の規模・構造は戦国大名の北条・武田の城並みの豪壮なもので、地方勢力の構築にしては大き過ぎる。地方豪族の権力というものを考察する上でも興味深い城である。
横堀を分断する大竪堀→IMG_1886.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.796022,141.505923&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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