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坂元城(宮城県山元町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3023.JPG←主郭西側の大堀切
 坂元城は、蓑首城とも呼ばれ、亘理城主亘理美濃守重宗の家臣坂元三河守によって築かれた城である。坂元氏は愛宕山城を居城としていたが、相馬氏の攻撃で落城し、父の大膳が討死した不吉な城であったことから、1572年に新たに蓑首山に坂元城を築城したと言われている。1589年、伊達政宗が相馬氏の駒ヶ嶺城を攻略した際、坂元三河守も亘理元宗にしたがって出陣し、討死した。1591年に亘理氏が遠田郡涌谷に移封となると、三河守の子もこれに従ってこの地を離れた。その後の坂元城主ははっきりしない部分もあるが、後藤信康・黒木守元・津田景康と変わったと考えられている。明確になるのは1616年以降で、伊達氏の一族大條長三郎宗綱が坂元城2千石を拝領してからである。坂元城は、元和の一国一城令で坂本要害と名を変え、以後、大條氏が城主を歴任し幕末まで存続した。

 坂元城は、坂本神社の建つ小丘陵に築かれている。丘陵上に本丸があり、北麓の平野部に二ノ丸、更に出曲輪状の三ノ丸があり、二ノ丸外周は堀で囲まれていた。しかし現在は宅地化でかなりの遺構が失われている。主郭内は堀切で分割されており、東側の長方形の平場と西側の細い曲輪に分かれている。西側の細い曲輪の西辺には土塁が築かれ、その裏には大堀切が穿たれている。一方、二ノ丸は坂元小学校などに変貌している。一部に僅かに土塁が残る他は改変が進み、堀は畑や宅地となっていて、往時の姿を想像するのも難しい程である。三ノ丸に至っては完全に湮滅している。結局、主郭西側の土塁と大堀切が唯一の見所で、主郭内の堀切もどのような意図で穿たれたのか意味不明である。尚、城址南の丘陵上に大條氏の墓所があることを、神社のおばさんが教えてくれたので訪問したが、この墓所も出城っぽい雰囲気であった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.917744,140.89335&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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