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柴田城(宮城県柴田町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3201.JPG←本丸北の段曲輪
 柴田城は、藩政時代には船岡要害と呼ばれ、後に「伊達騒動」で知られる原田甲斐守宗輔の居城であったことで有名である。現在船岡城址公園となっていることから、一般には船岡城と呼ばれている。しかし私がざっと調べた限り、どうも往時にこの城が船岡城と呼ばれたことはなく、『仙台領古城書立之覚』にも柴田城とあり、藩政時代には「城」ではなく「要害」とされたことから、柴田城或いは船岡要害と呼ぶのが正しいと考えられ、ここでは『日本城郭大系』に従い、柴田城と呼称する。

 柴田城の創築は不明であるが、一説には鎌倉初期の1200年に2代将軍源頼家の命を受けた宮城四郎家業に誅滅された芝田次郎の居城であったとも言われるが明証はない。その歴史がはっきりするのは、伊達氏の所領となった天文年間(1532~55年)以降である。伊達稙宗の時に柴田氏の初代四保但馬定朝が居城四保館(後の柴田城)となった。定朝の子宗義に四保氏を柴田氏に改め、1593年に志田郡桑折に移封されてこの地を離れた。その後、慶長年間(1596~1615年)には屋代景頼が城主となった。1617年、原田宗資がこの地に移封となり、その子宗輔までこの地の領主であったが、1671年に「伊達騒動」で断絶した。この原田時代には、家中屋敷に居住していて、居館をことさら普請することはなかったとされる。1681年、柴田宗意が登米郡米谷から移封されて柴田城に戻り、1694年に船岡要害の建築許可が降り、三ノ丸に居館を造営して歴代の居城とし、幕末まで存続した。

 柴田城は、前述の通り船岡城址公園となっており、公園化でかなり改変が進んでおり、あまり城址らしい遺構を留めていない。山頂部の本丸・二ノ丸には平場が広がり、一部に土塁らしき跡も見られるがはっきりしない。周囲には腰曲輪らしい段々の平場もあるが、これも明瞭ではない。本丸の北に見られる段曲輪が、はっきりと往時の姿を留めている程度である。中腹の三ノ丸も公園化されているが、先端に腰曲輪の原形を留めるなど、こちらの方が遺構は明瞭なようだ。この他、二ノ丸下の中腹に横堀もあったようだが、日没タイムアウトで未見である。山上という地勢以外は城址の名残を感じさせるものが少なく、残念である。
本丸の土塁跡→IMG_3191.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=38.053464,140.755162&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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