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鶴丸城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4253.JPG←ニノ郭群東の畝状竪堀
 鶴丸城は、別名を岩ヶ崎城とも言い、葛西氏の家臣富沢氏の居城である。富沢氏は元々葛西氏の庶流であったと言われ、その祖右馬之助が南北朝時代の岩切城合戦の際に吉良貞家に味方した軍功により、三迫富沢郷を賜って鶴丸城を築いて居城とした。右馬之助は名を富沢日向道祐と改め、以後明岩・直家・直綱・直景と5代に渡り、代々日向守を名乗った。富沢氏の支配地域は大崎氏の領国と近かった為、後に大崎氏に仕えるなど、葛西氏に抗する動きを見せるようになった。特に戦国後期に入ると、4代直綱は葛西晴信に対して度々反乱を起こし、晴信はこうした富沢氏ら領内の有力国人衆の反乱鎮圧に忙殺された。天正年間(1573~92年)に入ると、伊達氏に誼を通じるなど、終始葛西氏に対する対抗姿勢を崩さなかった。しかし強勢を誇った富沢氏も、1590年、5代直景の時に豊臣秀吉の小田原征伐の不参のため、葛西氏と共に改易された。葛西大崎一揆の際には、葛西晴信の軍に付いて佐沼城に立て篭もり、伊達政宗の軍勢に攻められて討死し滅亡した。富沢氏滅亡後、鶴丸城は伊達政宗の5男宗綱、6男宗信の居館となり、茂庭周防の補佐により5万石の城下町を築こうとしたが、いずれも夭逝して成らなかった。その後、石母田・田村・古内・茂庭の各氏が入部し、最後は中村氏が170年にわたって支配して幕末まで存続した。

 鶴丸城は、栗駒小学校の北にそびえる標高100m、比高70mの丘陵上に築かれた城である。広い城域を有した城で、大きく4つの曲輪群と、そこから派生する尾根状の曲輪群で構成されている。最も西の最高所に主郭があり、その東に堀切を挟んでニノ郭、更にやや離れて東に三ノ郭・四ノ郭が築かれている。いずれの曲輪にも腰曲輪が築かれている。主郭は南尾根に腰曲輪が連なり、二ノ郭・三ノ郭は北東の尾根上に腰曲輪が連なっている。薮でわかりにくいが、先端には小堀切も穿たれている。四ノ郭は上下2段の平場に分かれ、更に外周に腰曲輪が廻らされている。南には虎口が築かれ、虎口脇に竪堀が穿たれて防御を固めている。この城で特徴的なのは二ノ郭群の東斜面に大きく展開した大きな畝状竪堀である。しかし斜度の緩い斜面に穿たれており、どこまで防御性を発揮したのかはよくわからない。畝状竪堀よりも、急峻な切岸にした方が防御性が高いように思われる。鶴丸城は、全域が公園化されており、歩いて回るのには良いが、肝心の遺構は公園化による改変が多く、今一つ感心しない。姫松楯を手本にして欲しいところである。

 それにしても鶴丸城は完全な山城であり、これを元和の一国一城令以後も取り立てていた伊達政宗は、徳川幕府を舐めきってるとしか思えない。伊達氏は、この城に限らず領内各所の要害といい、一国一城令を完全に無視した態度はさすがにふてぶてしい。
主郭から見たニノ郭→IMG_4194.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.835897/140.992302/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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