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高沢城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6115.JPG←クランクする堀切
 高沢城は、高沢伊賀守氏信の居城であったと伝えられている。氏信は鎌倉前期の武士で、親鸞に帰依してその直弟「二十四輩」の一人となり、出家して念信と称し照願寺を開基したと言う。後に高沢氏5代民部少輔で高沢氏は断絶した様だ。戦国時代に入ると、宇都宮氏の庶流で下野武茂城主武茂氏泰の次男泰長が、常陸国鳥子に入部して鳥子四郎左衛門尉を称し、高沢城を修築して居城とした。その後、佐竹氏が勢力を拡張し、武茂宗家を服属させると、鳥子武茂氏も佐竹氏に従ったと言う。

 高沢城は、河内城の西方1kmの位置に位置する比高80m程の丘陵先端に築かれた城である。この地域は佐竹氏と度々争った下野那須氏の領国に繋がる街道が通っており、集中的に城郭が配置されて那須氏の侵攻に備えている。高沢城は、主郭の周囲に一段低く二ノ郭を廻らし、更に周囲に腰曲輪を配し、派生する四方の尾根には馬蹄形曲輪と堀切を築いて防御を固めている。堀切はいずれも中小規模のものであるが、背後の北西尾根には二重堀切が穿たれている。この二重堀切は非常に特徴的で、内側の堀はクランク状に横矢が掛けられ、中間土塁もL字状に折れ曲がっている。ここから北東に落ちる竪堀は登城道を兼ねたらしく、主郭腰曲輪への虎口が開かれている。また二重堀切の南側斜面に築かれた腰曲輪は、両端を掘切から落ちる竪堀で遮断されており、防御性をよく考えた縄張りとなっている。また東に伸びる尾根筋には曲輪らしい平場が伸びており、先端近くに堀切や小郭が築かれている。高沢城は小規模な城砦であるが、遺構はよく残っている。但し一部は藪が多くて、遺構の確認がしづらいのが難である。
腰曲輪の端部を遮断する竪堀→IMG_6143.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.663582/140.240350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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