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瓜連城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7769.JPG←外郭の空堀と櫓台
 瓜連城は、常陸の南北朝史に名高い城の一つである。1336年正月、建武の新政で「朝恩に誇った」とされる三木一草(楠木〔くすのき〕・結城〔ゆうき〕=結城親光・伯耆〔ほうき〕=名和長年・千種〔ちぐさ〕=千種忠顕)の一人、楠木正成の一族楠木正家が、この地に代官として入って瓜連城を築き、公家方に付いた常陸の武士団を糾合したと伝えられている。時あたかも鎌倉に下向した足利尊氏が新政から離反し、伊豆竹之下で押し寄せる新田義貞率いる官軍を撃ち破った翌月に当たる。正家はこの城に拠って、武家方の佐竹氏と1年余りにわたって戦ったが、佐竹氏9代義篤の大軍に囲まれ、那珂通辰の援軍も虚しく落城した。一方、この間に尊氏は京都で敗退し、九州で再起を図って京都を再び制圧し、北朝を擁立した。敗れた後醍醐天皇は吉野に脱出して南朝を開き、武家方に徹底抗戦した。しかし三木一草は既にこの世になく、北畠顕家、新田義貞ら南朝の柱石たる諸将も相次いで討死し、南朝勢力の再建が急務となった。ここで南朝は、1338年9月、重臣の北畠親房(顕家の父)を常陸に下し、常陸南朝方の結集を図った。神宮寺城から阿波崎城を経由して小田治久の小田城に移った親房は、ここで神皇正統記を著して立場曖昧な武士たちの説得を図ると共に、一族の春日顕国に下野まで侵攻させ、1339年、八木岡城益子城を攻め落とし、西明寺城を下野攻略の拠点に据えて、飛山城まで陥落させた。室町幕府はこうした常陸南朝方の攻撃に対応するため、鎌倉府の執事として高師冬(将軍執事、高師直の従兄弟)を下向させた。師冬は、飛山城と対峙する宇都宮城に援軍として入ったが、落城が免れないと見て、常陸南朝方の中心小田城を背後から攻撃するため、瓜連城に拠点を移し、そこから南下して大軍で小田城を包囲した。小田城を落とされた親房は、関宗祐の関城に逃れて大宝城の下妻氏と共に抗戦を続けたが、2年の籠城戦の末に落城し、親房は落城寸前に脱出して吉野に戻った。これ以後、瓜連城は歴史の表舞台から姿を消した。

 瓜連城は、久慈川西岸の比高30m程の段丘上に築かれている。城跡は現在、常福寺と瓜連保育園の敷地となっている他、主郭は城址公園として整備されている。南北朝時代の城であるので、それほど技巧的な縄張りは見られないが、北端の主郭の外周には大土塁が築かれ、北西側は空堀が穿たれ、北東斜面には腰曲輪が巡らされている。この腰曲輪は、外郭の東側まで延々と伸びており、主郭には腰曲輪に降りる位置に虎口と櫓台が築かれている。また主郭北端も大きな隅櫓台が築かれている。常福寺墓地の南西側にも規模の大きな空堀と土塁が築かれ、改変を受けているものの大きな櫓台の張出しも見られる。この張り出した櫓台は、当然横矢掛かりを意識したもので、もしかしたらこの城が戦国期まで存続した可能性を示すものかもしれない。予想よりも遺構がよく残り、特に土塁も空堀も想像以上に規模が大きい。築城技術が未発達な南北朝期でも、人海戦術で大空堀・大土塁だけは築けたということなのだろう。全国に争乱が広がった南北朝時代は、歩兵の大量動員によって軍隊規模が一気に拡大した時代でもあった。
主郭の大土塁→IMG_7835.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.503876/140.451901/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo1&vs=c1j0l0u0f0
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