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櫛形城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8168.JPG←主郭外周の横堀
 櫛形城は、『日本城郭大系』では佐竹氏の重臣小野崎氏の初期の居城とされている。元々は、1303年に宍戸五郎宗時が築いたと言われ、その子知時と合わせて2代38年間の居城となったと言う。一方、小野崎氏は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔で、通盛の代の時に佐都荘小野崎に入部して、小野崎氏を称した。その後、通盛の子通長は佐竹昌義に従属し、家臣団の列に連なった。南北朝期の当主通胤も、佐竹氏に従って常陸各地に転戦して活躍した。小野崎氏の主筋に当たる佐竹氏は終始一貫して北朝方に付き、北方に本拠を構える南朝方の菅股城主大塚氏の南下を阻止する為、1336年頃、通胤を櫛形城に移封した。しかし、水便上の不利などの理由から、1370年、通胤の長子通春の時に近くの山尾山に山尾城を築いて移った。尚、この通春が小野崎氏惣領を継いで山尾小野崎氏と称され、通胤の二男通房は後に石神城を本拠とした石神小野崎氏の祖に、また三男通業は後に額田城を本拠とした額田小野崎氏の祖にそれぞれなった。

 櫛形城は、十王スポーツ広場の南西の標高84m、比高34m程の丘陵上に築かれている。基本的には単郭の簡素な縄張りであるが、主郭の南面以外の外周を横堀がぐるりと取り巻いている。この横堀は、南東側でクランクして横矢が掛けられている。この屈曲部と、その反対の西側に虎口が築かれている。堀の外周には土塁が取り巻いているが、土塁は場所によって幅が異なっている。また北辺土塁の北側や東土塁の東側に腰曲輪が築かれており、特に東側のものは土塁に切れ目があって城内通路となっている。横堀の南東部は更に外に堀切と腰曲輪が伸びている。主郭内は藪がひどく確認が大変だが、塚らしい土壇が残っている。宗教的な施設と思われる。櫛形城は、鎌倉後期~南北朝期の城砦らしく、構造は至ってシンプルであるが、部分的な横矢掛かりの存在は戦国期の改修を想像させる。しかし守護大名の重臣の居城としては小規模すぎ、もう一つの小野崎氏の初期の居城の伝承のある友部城の方が、重臣の居城に相応しいように思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.679158/140.676606/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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