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石神城(茨城県東海村) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8744.JPG←Ⅰ郭周囲の空堀
 石神城は、石神小野崎氏の歴代の居城である。石神小野崎氏は、佐竹氏の重臣山尾小野崎氏の庶流で、小野崎通胤が佐都荘小野崎郷から櫛形城に本拠を移した際、その二男通房が旧地に留まり八百岐館主となって、石神小野崎氏の初代となった。室町中期になると、佐竹氏内部で大規模な内訌「山入の乱」が生起し、小野崎氏もこれに深く関わることとなった。そして1432年の石神合戦で石神城が初めて歴史上に姿を現し、この合戦で小野崎越前三郎通房(初代通房の孫)が戦功を挙げ、鎌倉公方足利持氏より感状を与えられた。1467年頃には、小野崎越前守が石神城主となっていた。1489年、山入の乱に介入した伊達尚宗・葦名盛高・結城政朝らの連合軍が佐竹領に侵入した時、小野崎通綱は佐竹義治の身代わりとなって久慈郡深荻で討死し、佐竹軍を大勝に導いた。その功により、その子通老に那珂郡石神350貫文、久慈郡川合350貫文の所領が与えられた。1529年に部垂の乱が生起して佐竹家中が再び動揺すると、1535年、石神城主小野崎通長による「石神兵乱」が起こり、佐竹義篤は石神小野崎氏の同族、額田城主小野崎下野守篤通にこれを鎮圧させた。その後、1547年に石神氏・額田氏は領地争いを起こし、額田氏によって石神城を攻め落とされた。しかし、石神氏は佐竹義篤への戦功によって石神城主に復帰し、通長の子小野崎越前守通隆は佐竹氏の元で陸奥南郷・常陸中南部・下野那須・芳賀郡等の各地に転戦して活躍した。1602年、佐竹義宣が出羽秋田へ移封となると、小野崎義広もそれに従って秋田に移り、石神城は廃城となった。

 石神城は、比高15m程の台地先端部に築かれた城である。城址公園として整備されていることもあって非常に良好な姿を残している。城の中枢部は真ん中がくびれた臼形をしており、牛久城に似た感じの構成となっている。先端からⅠ郭・Ⅱ郭・Ⅲ郭が並んでいるが、Ⅱ郭が「御城」の名が残る通り実質的な主郭で、Ⅰ郭(遠見城)はⅡ郭の南東部を独立区画として掘り切ったもので、後から分割された詰丸の様な曲輪だったと想定される。いずれの曲輪も広い面積を有し、周囲に大きな横堀と大土塁が築かれ、堀の外周にも土塁が廻らされ、Ⅰ郭以外は土橋で連結されている。Ⅰ郭は最も小さい横長の曲輪だが、Ⅱ郭側を高土塁で防御し、土橋もないことから木橋で連結していたと推測され、最も守りが厳重である。この他、Ⅲ郭から西に400m程離れた所に外郭の土塁が残っており、往時は相当な規模の城だったと考えられる。但し、横矢は殆ど無く、城の中枢部も外郭も直線的な塁線のみで構成されている。とはいえ、大規模な堀と土塁が素晴らしく、茨城県内では必見の城の一つである。
Ⅱ郭の土橋と空堀→IMG_8685.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.482709/140.578158/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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